テクノロジーが人間の「表現活動」に使われ始めた70~80年代
前回のインタビュー(前編・後編)で、西欧の近代化の歴史が世界に与える影響を理解することの重要性を説いた藤幡氏。今回は藤幡氏がそのような認識に至った経緯も辿りながら、アートが一部の趣味人のためのものではなく社会全体、そしてビジネスパーソンにとっても必要である理由を深堀りしていく。
藤幡氏が日本のメディアアーティストの第一人者となったのは、氏が仕事を始めた頃の技術的、文化的な潮流が大きく関係している。東京芸術大学のデザイン科に入った藤幡氏が大学院を出た80年代初頭に、アメリカでCG(コンピュータ・グラフィクス)が注目を集めるようになって来た。藤幡氏は「僕はその波にぴったりとハマった」と回想する。
70年代から80年代にかけての日本はバブル経済の始まりの時代で、文化的にはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表されるテクノポップが興隆した。それまでは無機質なものだと思われていた「テクノロジー」が、音楽のような表現活動に用いられるということに世間が興奮した。YMOのようなグローバルに活躍するミュージシャンの存在により、東京が初めて文化の発信地として注目されるようになった時期でもある。
YMOの細野晴臣氏と大学院生時代に知り合った藤幡氏は、1980年のワールドツアーに際して「YMO techno badge」を制作した。基盤上のボタンを押すとピピピと光るそのバッジは100個限定の手作りで、ツアー中にメンバーから関係者や海外ミュージシャンに配られたという。
その後、東京にもCGによる映像制作会社がいくつか生まれ、藤幡氏はそのうちのひとつであるセディック社の立ち上げから関わる。
最初に海外との接点ができたのは、アメリカだった。セディックで作った作品をSIGGRAPH(シーグラフ、Special Interest Group on Computer GRAPHics:アメリカコンピュータ学会のCGに関する分科会の主催で毎年行われる国際会議・展覧会)で上映し、「日本からすごいヤツが出てきた!」と驚かせたのだ。
そんな氏の作品は、当時の東京やアメリカではカルチャーとして受け止められており、アートとして扱われてはいなかった。自身がアーティストとして期待されるようになるのは90年代、ヨーロッパにおいてだった。この経験が、藤幡氏に日本およびアメリカと、ヨーロッパにおけるアーティストの位置づけの違い、近代化の歴史が西欧社会に及ぼす大きな影響について考えさせるきっかけになったのだという。