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Twitter誕生から2年でジャック・ドーシーはCEOを解任された──TwitterからXに至る物語

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 2023年7月、「Twitter」は「X」に変更されました。日本でも大騒ぎとなったこの「事件」の直接的な要因は、イーロン・マスクによる同社の買収です。しかし、Twitterの誕生からXに至るまでの16年間にも、Twitterではドナルド・トランプのアカウント凍結など耳目を集める様々な騒動が起こっていました。。そうした騒動のうち最初期に起きたものが、創業者の1人でTwitterの顔として知られていたジャック・ドーシーのCEO解任。これにまつわるエピソードを、TwitterがXになるまでのバックストーリーが語られた『TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日』(翔泳社)から紹介します。

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 本記事は『TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日 ジャック・ドーシーからイーロン・マスクへ、炎上投稿、黒字化、買収をめぐる成功と失敗のすべて』(原著:カート・ワグナー)の「第1章 ジャック・ドーシーの復活」から一部を抜粋したものです。掲載にあたって編集しています。

「ツイッター」の誕生

 ツイッターが正式に誕生したのは2006年3月のことだ。その年、ドーシーはツイッターのことばかり考えていた。

 このプロダクトにより、人々は短いテキストメッセージで近況を送信できるようになり、その近況がアカウントをフォローしている人たちのスマートフォンにテキストメッセージとして配信される。140文字に制限することで、メッセージが分割されることなく確実に届けられるようにした。140文字ならば、メッセージにユーザー名を含めるためのスペースも確保できる。チームメンバーの初のツイートは、どれもまるで1行日記のようだった。

「コーヒーを飲んでいるところ」
「家に帰る途中」
「今から寝る」

 しかし、多くのスタートアップの例に違わず、プロダクトの成長は緩慢で、社内の権力争いもひどいものだった。従業員たちはつぶやきに夢中になっていたが、ツイッターのユーザー数はローンチから約6カ月の時点で5000人にも達していなかった。

 グラスは、何人かの同僚の神経を逆なでるような態度を取ったことを理由に、危険人物扱いされるようになり、ツイッターの最初のプロトタイプができ上がった数カ月後に会社から追い出されてしまった。その決定を下したのはウィリアムズだが、ドーシーもその決断を後押しした(グラスは後々マスコミに「ツイッターの忘れられた共同創業者」と紹介されることになる)。

 正式にツイッターを中心とした事業へとピボットを図るにともない、他にも何人かの従業員が、彼らが持つオデオ株をウィリアムズが買い取る形で会社を離れた。一方、ドーシーは新プロダクト、ツイッターの技術リーダーのポジションにとどまり、ツイッターの運営に欠かせないソフトウェアのコードの大半を書き、管理を任されるようになっていた。

 ツイッターが実際に注目を浴びるようになったのは、1年が経った後のことだ。2007年3月にテキサス州オースティンで開催されたテック・カンファレンス「サウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)」は、ツイッターの話題でもちきりだった。チーム・ツイッターは、ツイートのフィードがカンファレンスのビデオスクリーンに表示されるように手配した。オースティンのあちこちでパーティやどんちゃん騒ぎが繰り広げられる中、参加者たちは他の人たちが今どこで何をしているのかをキャッチするために、この新しいサービスを利用したのだ。

 ツイッターはブログ関連スタートアップ部門で最優秀賞を受賞した。このとき、ドーシーが受賞スピーチをしている。そのスピーチは、驚くほどツイッターというブランドを体現したものだった。なにしろ、140文字以下に抑えられたスピーチだったのである。それから3カ月のうちに、新規の登録ユーザー数は10万人を超え、テック系メディアでも頻繁に取り上げられるようになっていった。

 その夏、ウィリアムズは30歳のドーシーをツイッターの初代CEOに任命した。ドーシーはアイデア出しに貢献しただけでなく、プロダクトをゼロからつくり上げた人物であり、何よりツイッターにすっかり夢中になっていた。問題は、ドーシーにCEOとしての経験が一切ないことだった。かろうじて、マネージャー職で他のエンジニアたちをまとめたことがある程度である。アイデアを生み出すクリエイター、そしてそれを形にするインベンター(発明家)としては秀でていたドーシーだが、CEOとしては苦闘を強いられることになる。

 ドーシーの穏やかな語り口、物静かな態度は、概して自信に満ちた振る舞いや、揺るぎない意思決定が求められるスタートアップでは武器にならなかった。おまけに急成長を遂げたことで、ツイッターのサイトは何かにつけてダウンするようになっていた。そのうえ、ドーシーは服飾デザインのクラスに通うなど、CEOになってからも本業以外の活動や趣味に情熱を注いでいた。いつか自分のジーンズブランドを立ち上げたいと思っていたのだ。彼は、ツイッターは必ずしも「会社」になるべきだとは思っていなかった。

 むしろ、大きな利益を追求する必要のない、ある種の公共サービスを提供するプロダクトにしたいと考えていた。ハッカーの矜持を持つ彼はツイッターをインターネット・プロトコルのような、つまり、誰でも自由にその上にサービスやプロダクトを構築できる技術レイヤーにした方がいいと考えた。Eメールのようなイメージである。

 しかし、ツイッターが構築したのはドーシーの考えるそれではなかった。リターンを期待する本物の投資家つきの、本物の会社をつくろうとしていたのだ。会長のポジションに就いたウィリアムズは、ドーシーが仕事を離れてヨガをしたり、裁縫教室に通ったりすることに不満を漏らした。「君は服飾職人にも、ツイッターのCEOにもなれる」。そして、ウィリアムズはこう続けた。

 「でも両方は無理だ」。この最後通告が功を奏することはなく、ツイッターが成長するにつれ、経営者としてのドーシーの経験不足が露呈していく。人材の管理に苦労し、ツイッターの小規模な取締役会に根回しすることなく重大な決定を独断で下し、会社の経費支出を自身のノートパソコンで管理した上、後にそれが不正確であったことが判明した。

 2008年秋、ドーシーをCEOに就かせてから1年あまりで、ウィリアムズは早くも我慢の限界だった。取締役会も同意見だった。取締役会のうち2つの席は、ツイッターに出資したベンチャーキャピタリスト、スパーク・キャピタル(Spark Capital)のビジャン・サベットと、ユニオン・スクエア・ベンチャーズ(Union Square Ventures)のフレッド・ウィルソンが占めていた。少人数からなる取締役会はドーシーの解任を決定し、後任にウィリアムズを選出した。

 本人がこのことを知ったのは、2008年10月15日、サンフランシスコのクリフト・ホテルで朝食を取っている最中だった。彼らはドーシーに実質的な仕事は何もない、純粋に肩書だけのポジションである会長として会社にとどまるよう求めた。短いCEO在任期間はこうして幕を閉じた。

 落胆は大きかった。ドーシーにとってツイッターは手塩にかけて育てた子どものような存在だったし、ツイッターで働くことは、それまで求めながらも手に入れることのできなかった安定と目的意識を与えてくれていた。同時に、怒りを覚え、裏切られたと感じた。

 CEOの座から引きずり下ろされたことに対し、抗いたくとも、ドーシーにできることは何もなかった。共同創業者であっても、会社に対する決定的な支配権は持っていなかった。もし支配権を行使できるとすれば、それはツイッターに出資している投資家たちと、ブロガーの売却で得た資金を創業時からツイッターに投じていたウィリアムズだった。発言権と影響力を持つのは投資家たちなのだという厳しい現実を、初めて突きつけられた。札束を持つ者が、力を有するのだ。

 ドーシーは、怒りをうまく隠した。少なくともおおやけの場では。経営者ではなくなってもなお、インタビューに応じ、注目度の高いイベントに顔を出しては、ツイッターの共同創業者としての役割を演じていた。テック企業幹部から構成される代表団の一員として、米国務省とともにハイテク技術の活用方法を探ることを目的とした3日間のイラク訪問にも参加した。その夜、ワシントンで開催された国務省主催の晩餐会では、ヒラリー・クリントン国務長官の隣の席に座っている。

 また、中国の著名アーティストで活動家として知られるアイ・ウェイウェイとともに、パネリストとしてディスカッションに臨み、地元セントルイス・カージナルスの試合では始球式の投手役を務めた。ほとんどの人が気づいていなかったのは、ツイッター社内にドーシーの役割は基本的に存在しないということだった。会社はドーシー抜きで回っており、まだツイッターに残っていた共同創業者、エブ・ウィリアムズとビズ・ストーンはむしろ、自分たちのあずかり知らぬところでドーシーがプレスの前に姿を見せては、あれこれ語ることに苛立っていた。

 社内では何の影響力も持たなかったドーシーだが、その状況が2010年の夏に一変する。ニック・ビルトンがその著作『ツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切り』(日本経済新聞出版)で詳しく描写しているが、全容は次のようなものだった。

 このとき会長職に就いていたドーシーは、ツイッターの上級幹部と接触しては、アドバイスを提供するようになった。そしてさらに重要なことは、ウィリアムズに不満を持つ彼らの声に耳を傾けたのである。多くの幹部が、ウィリアムズは優柔不断で動きが遅すぎると考えていた。ドーシーは幹部たちに、その懸念を取締役会に直接上申するように促した。ウィリアムズのボスに、これらの不満が少しずつ漏れ伝わるようにしたのだ。

 夏が過ぎ、彼らの不平不満が山のように積もると、ドーシーはサンフランシスコの自身のアパートメントに数名の上級幹部や取締役を集め、秘密の会合を開き、ウィリアムズの仕事ぶりについて話し合った。もちろん本人は招待されておらず、水面下で何が起こっているのかなど知る由もなかった。

 ニューヨーク・タイムズ紙の元記者であるビルトンは、「ジャックはこの夏、都合のいい情報がしかるべき人物の耳に確実に届くように、周囲の人々を動かしていった。まるで宿敵とのチェスの対戦で、ポーン(歩兵)を動かすかのように。問題は、いつの間にか対戦相手にされているのに、エブがまったく気づいていないことだった」と書いている。

 ドーシーが戦いに勝利したのは驚きに値しないだろう。ドーシーのCEO解任から2年が経った2010年10月、今度はウィリアムズがクビになり、ディック・コストロが後任に就いた。かつて己を排除したウィリアムズを引きずり下ろすことに、ドーシーは成功したのだ。

TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日 ジャック・ドーシーからイーロン・マスクへ、炎上投稿、黒字化、買収をめぐる成功と失敗のすべて

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TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日
ジャック・ドーシーからイーロン・マスクへ、炎上投稿、黒字化、買収をめぐる成功と失敗のすべて

著者:カート・ワグナー
翻訳:鈴木 ファストアーベント 理恵
発売日:2024年11月18日(月)
定価:2,200円(本体2,000円+税10%)

本書について

Twitter社を巡る数々の買収話、ドーシーが目指したTwitterの本来の姿と手放したワケ、マスクの見せた買収直前の裏切り、そして就任後に社員を驚愕させた改革の数々。青い鳥が「X」になるまでのバックストーリーを一挙に物語る。

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【AD】本記事の内容は記事掲載開始時点のものです 企画・制作 株式会社翔泳社

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