おやっさん、この通りにやろう!
当時の苦境を脱出するために、悩んだ挙句の桜井社長の結論は至極当然の、「圧倒的な品質の酒造り」だった。それまでの普通酒での試行錯誤から転換し、大吟醸の酒造りに挑む。そこで立ちはだかった問題は、酒造としての品質と、最上級の品質をめざす杜氏の経験とスキルの不足という課題だった。それまで普通酒しか作ってこなかった杜氏には、当然ながら大吟醸作りは無理だった。酒造りとは、杜氏を筆頭にした職能集団である。杜氏という職人には季節性があり、夏場はいわば農閑期。地域を渡り歩く杜氏は集団をつくっている。そこでそれまでの山口の杜氏集団にこだわらず、各地の杜氏の集団に目を配るようにした。やがてある人が、兵庫県の田島杜氏を紹介してくれ、その後の13年間、旭酒造のブランドの基礎を作ってくれた。そんな中、桜井社長に、とある業界雑誌の論文が目に止まった。この論文が、後の獺祭の誕生につながる、大きな前進をもたらす。
静岡に「磯自慢」とか「開運」ですとか「臥龍梅」など、キラっと光るといいお酒があります。こうしたお酒の技術的なリーダー役だった工場技術センターの河村伝兵衛先生が書かれた静岡県の吟醸酒についてというレポートに出会ったのです。例えば蒸しあがった時にこういう状況でなければならない、それから麹室に入ったらこういう形になっていなければならない、何度まで来たらこういう作業しなければならない。事細かく書いてある。これだ!と思って、うちの杜氏のとこに持っていきまして。「おやっさん(杜氏)、この通りにやろう」。
杜氏がその論文の通りにやってくれたおかげで、その年から大吟醸らしい大吟醸が作れるようになった。ただ今から振り返れば、「せいぜい65点程度」の出来栄えだったという。それでも、酒造りに関して自信を得た桜井社長は、「製造に口を出す蔵元」になっていった。一時は倒産まで考えた会社も次第に軌道に乗ってきた。そうすると、次に考えるのは将来の存続のための方策を考えることだ。そこで考えたことが、杜氏の若返りだった。