どん底の「逃走」からGoogle・Microsoftへ
信じられないことだが、今の自分は、あの交通事故に、そして、その後のPTSDの地獄のような日々に感謝している。どん底の経験があったからこそ、今の自分がある。そう思えるようになっている。
どのくらい眠ったのか。ふっと目が覚めると、アパートに一人でいるのが怖くなった。嘔吐物の異臭が充満する部屋、もうウンザリだ。だから、その場所から逃げたかった。
そして、走った。ジョギングやランニングというと聞こえが良いが、そんなカッコいいものではない。文字どおりの「逃走」だった。何も考えずに近所の多摩川の河川敷に向かい、気づけば5時間ぐらい走り続けていた。実際には30分走って30分歩くようなペースだったが、その日から、逃げるように走ることが私の習慣になった。
その「逃走」がピークに達したのは、30代前半の頃だ。PTSDの症状が悪化して仕事に行けなくなり、心配した上司が自宅の玄関ドアに置き手紙を挟んでいってくれたこともあった。だが、それから1ヵ月ほど経過して、当然のことだが解雇された。失業給付金を受け取りながらの生活。「もう嫌だ! こんな自分はもう嫌だ!」。どん底の思いに駆られ、ただひたすらに多摩川を走っていたそのときだ。
「やればできる。走ろうと思えば、走れるじゃないか!」。私は、自分がこんなに走れるとは知らなかった。
実は交通事故の後、私はほとんど走ったことがなかった。後遺症で脚が硬直しており、特に左脚は関節が固く曲げるのが窮屈だったため、走ることを無意識に避けていたのだ。だが、痛みはあっても、走ろうと思えば走れたのだ。
「やればできる」。その頃から、徐々に、私の口癖になっていった。まるで自らの魂に話しかけるように、「やればできる、やればできる、やればできる」と独り言をいうようになっていった。
そして、精神科に通いはじめた。もう23年になる。通いはじめた頃は、東京の九段下にあるクリニックだったが、その医師が千葉の船橋の医院に転院したため、今では船橋まで通っている。いわゆる投薬治療だ。処方された薬を毎日飲む生活。途中で、「もう大丈夫かな」と薬をやめようと何度も試みた。だが、その度に、しばらくすると動悸などのPTSD症状が出て、結局は、薬に頼る生活をしている。だから、今朝も薬を飲んでいる。
きっかけは覚えていないが、その頃から、日誌を書くようになった。断続的で途中でやめていた時期もある。だが、20年ほど続けている。「Visionノート」という名前をつけた。その内容は日記というよりも日誌だ。今日感じたこと、感謝できること、自分の理想像とか、そのときそのときの目標や目的などを書き留めている。フォーマットが決まっているわけでもない。だが、なんとなく書いていると、自分の軸のようなものができてくるし、潜在意識に思いが刷り込まれているような感覚がある。
失業給付金をもらい始めて10ヵ月ほどした頃だった。友人の紹介と推薦で、オーバーチュアという会社に採用された。Yahoo! Japanの検索連動型広告を提供している会社だった。たまたま自分が興味を持っている会社の一つだった。自分から応募したわけではない。人生とは不思議なもので、それから1年半ほどで私は結婚することになる。
「アルコール依存症の過去があり、精神科に通っていて、将来どうなるかわからない。それでもいいの?」と妻に正直に伝えている。自分は結婚などできる人間ではないし、そんな資格はないと思っていた。だが、流れで入籍することになった。ご縁としか言いようがない。
そして、それからさらに1年半ほどでGoogleに転職することになる。失業給付金をもらい始めたときから、約4年後だった。Googleも自分から応募したのではない。ありがたいことに、Googleから直接スカウトを頂いた。
Googleに入社後も、決してPTSDの症状がなくなったわけではなかった。薬を飲みながら、騙し騙し仕事をしていた。当時の自分にとって、仕事は「現実逃避だな」と感じていた。PTSDの悪夢から逃れるためには、何か気を散らしたほうがいい。だから、自分にとって、仕事とは「現実逃避の手段」であり、ある意味では「リハビリ」だ。
その後、独立起業を経験し、自分の会社をやりながら、電通グループや博報堂グループから仕事を頂いてきた。そして、Microsoftでも働く機会を得た。不思議なことに、Microsoftも自分から応募したわけではなく、知人を介してお声がけを頂いている。



