「エビデンス・ベースト」を補完する、観察と傾聴を通した人間理解
昨年、中室牧子さんの『学力の経済学』という本が話題になった。統計データや社会的実験が明らかにする費用対効果にもとづいた教育政策立案の必要性を論じたものだ。教育の世界はだれもが主観的な理想や意見を持っていて、議論が対立しがちである。少人数学級は学力向上に役立つのか、タブレットと紙の教科書のどちらがいいのかなど、科学的な根拠に基づいた意思決定を教育に適用するというマネジメント視点は斬新だ。この考え方は「エビデンス・ベースト(evidence based)」と呼ばれる。
ビジネスの世界ではこの考え方はおなじみのものだ。PDCAサイクルもその一種と言える。自然科学と異なり普遍的な法則というものはないにしても、多くの事例に共通の法則性があれば、それを知ることで成功の確率は高くなる。複数案を用意して実際に反応や効果を測定するABテストの結果が統計的に有意であれば、そちらを採用することで売り上げを増やしたり生産性を高めたりすることができる。このような分析に必要なのは客観的、論理的にロジカルに考える力だ。
だがこのような仮説検証に基づく科学的なアプローチも万能ではない。エビデンスで仮説の正しさは証明できるが、そもそもその仮説はどのように生み出すのか、過去のデータが当てはまらない新しい事態にどう対応するのか、といった課題には別の発想が求められる。データや根拠はなくとも、未来に対して直観的な判断の生まれる理由や、その決断は顧客を幸福にするのか、快適なものなのかといった視点も必要だろう。
医療の世界では「エビデンス・ベースト・メディシン」(=科学的根拠にもとづく医療)という言葉が定着しているが、それを補完するものとして、病気にかぎらず患者への全人的な理解を深めて処方を考える「ナラティブ・ベースド・メディシン」(=物語性に基づく医療)という考え方が注目されている。マーケティングの世界でも、データサイエンスによる緻密なターゲティングの一方で、顧客の購買に至る経験や感情を流れとして理解する「カスタマー・ジャーニー・マップ」の導入が進む。共通しているのは、観察と傾聴を通した人間理解がベースにあるという点だ。