会社について考える――会社員として、起業家として
会社員として企業に勤める身であれば、会社は自分のモノ(自分ごと)として、捉えている方は多いのではないだろうか。会社の話題になったときに、良い話であれば嬉しくなるし、悪い話であれば反論したくなる、というのが常だろう。
自分で会社を興し自己責任として起業家という道を歩んでいる現在になって、会社員当時ではきづかなかったが、社長や会社の各部署の方々に支えられていたのかと痛感するものである。なくなってはじめて分かる有り難みがそこにはある。
さて、今回のテーマである「会社は誰のモノか?」という話を論じることになったのは、色々と先達の方々の「紆余曲折のお話」をお聞きした経験からであり、その経験を自分なりに咀嚼・解釈した完全なる私見として恐縮ながら今回は寄稿をさせていただく。そのため、過去の所属した組織や現状の業務とは異なり、一個人の思想としてご理解を頂きたい。
“無限”に生き続ける「法人」を作り出した、“生”が有限である「人間たち」
そもそも会社とは「法人格」として、我々のような生身の人間(=自然人)と対になる概念として存在している。法人とは、われわれと同様の権利を有しているが、われわれのようには“死なない”のである。そのため、信用や信頼を担保し、自然人の社会運営を支え、また、発展をさせていく役割を同時に担っている。
もちろん、その法人を運営するのは、自然人であるわれわれ人間であり、何世代も続く老舗企業では、経営者が世代交代して企業経営を継ぐカタチで事業運営を行っている。その法人を運営することを「経営」と呼び、また、その法人の所有を明確にするのが「株式」の存在である。株式には所有者がいて、その所有者の占有率によって、その法人の経営における大きな主導権を持つことが出来るのである。
それだけを聞くと、会社は株を占有している「株主のもの」という安直な答えが出てきて、それが定説として流布するようになる。たしかに法人をモノと同列に扱い、そのモノを所有するという観点で見ると、法人の所有者は株主であろうことは全くの異論は無い。
ただ、はたして法人は、物質的なモノと同義な「所有するモノ」という認識で本当によいのであろうか。