仏教の「無我」の思想が閉塞した”今”を打開する!?
様々な話が出て、感じることも人それぞれでしょう。しかし、仏教には「自由=自らに由る」という言葉があります。正否をここで決着させるのではなく、持ち帰って“自由”に考えてほしいのです。ぜひとも、肩の力を抜いて、話の流れに身を委ねて楽しんでみてください。(三浦氏)
冒頭に挨拶に立ったモデレータの三浦祥敬氏は、トークセッションの捉え方についてそのように語る。三浦氏はお寺の出身ながら、かつては仏教を嫌っていたそうだ。それが仕事でアートやクリエイティブの業界と関わる中で東洋的思想の重要性を感じ、同時に仏教的な感覚を持って創作や企画に取り組む人々の「閉塞した今を打開する力」に期待するようになったという。
変化が激しく誰もが悩める時代にあって、「私とは何か?」と問い続けてきた仏教が再注目されています。その教えのひとつとして「変化する関係性の中で確固たる“我”などいない」という”無我”という考え方は、“我有りき”というスタンスで続けられてきた既存のクリエーションにどのような影響や可能性を与えていくのか。それをそれぞれ立場の異なる方々との対話によって模索してみたいと考えました。(三浦氏)
かつて数十年前までは、多くの世帯で複数の世代が同居し、地域との関係も密接だった。そのため「自分がどうしたいか」より「みんなのためにどうあるべきか」が優先され、勝手なことをすれば村八分という「客体性」が重んじられる社会だ。そこから時代が流れて資本主義経済が一般化し、競争が激しくなる中で「私は何をすべきか」「私はどうなりたいか」という「個」が重視されるようになっていく。
それは他人の求めに呼応するのではなく、自分で自分の在り方を決められる自由な時代と言えるだろう。しかしながら、個が偏重され過ぎることで、むしろ生きにくさや閉塞感につながっているとも言われている。とはいえ、再び村社会的な客体重視に戻るのにも無理があるだろう。
そこで三浦氏は「今後はどのようになっていくのかを考えたとき、仏教的な考え方、すなわち個人と客体の境目が曖昧になるのではないか」と予測する。つまり、自分が強く持つ「自分の形」を緩め、他者との関係性の中で自分を見ることで、新しい観点が得られ、豊かな自分になる可能性があるというわけだ。
本当の豊かさを考えたとき、経済的成功や物的な所有などを“幸せ”と捉えていた時代から、心の豊かさを重視する時代になったといわれています。「これがあれば幸せ」という条件が満たされて「幸せを獲得する」のではなく、正負を問わない「あるがまま」を受け入れ、感謝することで「幸せであることに気づく」のではないか。そんな議論が若い世代の間で交わされています。(三浦氏)
もちろん、そうした見解もあくまで三浦氏の「私」発信であり、異論のある人もいるだろう。しかし、三浦氏は「自分が考えることが他の人にも同じように見えているとは限らない。つい自分の見解を常識として一般化したくなるものだが、あくまで「絶対的な考え方はない」という前提のもと議論を進めたい」と強調する。他者との境を緩め、とりあえずは相手の言葉を受け入れる。まさに「無我」となって耳を傾けようというわけだ。
そんな三浦氏の前振りを受け、トークセッションの講師として東京神谷町・光明寺僧侶の松本紹圭氏、慶應義塾大学総合政策学部 教授の井庭崇氏、アート・プロデューサーの林口砂里氏が登場した。