USAトゥデイの新聞を維持しつつオンラインを成功させる組織づくり
新しい事業やビジネスモデルを用いた実験は、既存事業ほどの売上高や利益率につながらないと見なされることが多い。そして、深化に過剰投資し、探索に過小投資する傾向が見受けられる。しかし、一部にはこの困難極まりない状況を巧みに切り抜け、時間とともに進化を遂げてきた企業もある。
USAトゥデイはガネット社の一部門であり、1982年に全国紙を発行し始めた。そして1990年代後半には全米で最も広く読まれる日刊紙になった。
とはいえ1990年代になると、特に若者の間で、新聞購読者数が着実に減っていたのだ。テレビやインターネット・メディアでニュースを見る機会が増え、しかも、新聞の印刷コストは急騰していた。力強い成長と利益を維持するには、自社が伝統的な新聞事業を超えて手を広げるしかなく、それには劇的なイノベーションが必要だと、社長兼発行人(当時)のトム・カーリーは心得ていた。そこで、カーリーが打ち出したのが「ネットワーク戦略」である。新聞、テレビ、オンラインで配信するコンテンツ制作に明確に焦点を定めたのだ。
カーリーは1995年にオンラインニュース・サービス、USAトゥデイ・ドットコムを立ち上げるために、ロレイン・シチョースキーを抜擢。新聞紙事業とは独立して自由にオペレーションを行う権限を与えた。
ところが、USAトゥデイ・ドットコムはその後の10年、成長は伸び悩み、より広範な事業の業績にインパクトを及ぼすことはほとんどなかった。カーリーの理解では、問題はこの新ユニット(※オンラインを担当するユニット)が新聞事業のオペレーションと隔離しすぎて、新聞社の巨大な資源を活かしきれていないことにあった。
みんなシチョースキーのユニットを新聞事業の競合と見なしており、彼女の成功に手を貸そうという動機は乏しかった。また、利用可能な資本の大部分は新聞で消費され続けていたため、USAトゥデイ・ドットコムはすぐに資金難に陥った。
そこでカーリーは、1日1回発行する紙媒体の新聞、USAトゥデイ・ドットコム経由で常時更新するオンラインニュース、テレビという三つのプラットフォームでニュース記事と画像を共有することにした。
この戦略をやりきるためには、新聞事業を維持しつつ、テレビ放送やオンラインニュースでイノベーションも追求できる組織をつくらなければならないことを、カーリーは承知していた。そこで2000年に、USAトゥデイ・ドットコムのリーダーをジェフ・ウェバーに交代する。ウェバーは社内でネットワーク戦略を強く支持してきた幹部の一人で、新聞部門内で良い人脈を持っていた。
カーリーは外部からディック・ムーアも引き入れ、テレビオペレーションのUSAトゥデイ・ダイレクトをつくった。オンライン、テレビ、新聞で組織を分けたまま、独特のプロセス、構造、文化を維持し続けたが、カーリーは3事業の上級リーダー・チームに一枚岩になることを求めた。
事業間の統一を図るために、公正さ、正確さ、信頼性というUSAトゥデイの価値観を補強し、たとえユニットごとに文化の違いがあったとしても、プラットフォーム全体で確実に同じ価値観を持てるようにした。
オンライン部門とテレビ部門の責任者は編集会議を毎日開く。この編集会議を通じて、大きな視点で統一感を持たせるとともに、具体的なニュースでも細部の統一が図られたのである。人事政策についても、異なるメディアユニット間での異動を奨励し、昇進・報酬決定の際にはコンテンツの共有に積極的だったかどうかが考慮されることになった。
こうした変革により、USAトゥデイは両利きの組織となった。事業別ユニットは三つだが、力のある経営陣が各事業ライン全体を監督し、要所については統一が図られている(編集会議)。おかげで、ブランドやコンテンツ制作の組織能力を活かして、成熟した日刊紙事業で果敢に競争しながら、強いインターネット・フランチャイズ事業を発展させ、ガネット社傘下のテレビ局に速報ニュースを提供することができたのだ。