パリミキの急成長と規模縮小の背景
──最初にパリミキのご紹介をお願いいたします。
恒吉裕司氏(以下、恒吉):1930年に時計と眼鏡の兼業店として創業した会社で、現在ではパリミキホールディングスとして13ヵ国で店舗を展開しています。グループ内では売上の8割を占めるパリミキの他、百貨店内で店舗を構える金鳳堂、福井県鯖江市には製造拠点や修理加工拠点となる会社もあります。加えて、パリミキとして眼鏡技術専門学校「ワールドオプティカルカレッジ」を支援しており、眼鏡作製技能士という国家資格取得者を輩出できる点も特徴です。
私が入社した1990年代初頭に600店舗あり、そこから右肩上がりに成長して2000年には1,000店舗を突破、最盛期には1,200店舗まで拡大しました。そこから競合の参入によって眼鏡のコモディティ化が進んだことで規模を縮小し、現在の約620店舗にいたっています。
──1990年代から急成長とその後の縮小の背景には何があったのでしょうか。
恒吉:当時は「メガネの三城」と「パリミキ」という2つの屋号で展開しており、全国各地に出店する戦略をとっていました。一目で「メガネの三城」だとわかるよう、目立つ外観の店舗を郊外のロードサイドに増やしていきました。同じような外観にしていたので、それがある意味でブランディングになったのですが、年月が経ち建物が老朽化してきたこと、競合が「スリープライス」といわれる安価な眼鏡を市場に投入してきたことから、「昭和の眼鏡屋さん」というイメージが定着し、敬遠されるようになってしまいました。
また、お客様の年齢層も高く、50代から60代が多数を占めていました。実は、お客様が減少していく中でもその層は減少しておらず、若年層が増えていないことで売上が伸びていなかったということがわかっています。一般に、近視が進む小中学生と、45歳を過ぎて老眼が進むタイミングで眼鏡を作製します。買い替えサイクルは3年から4年なのですが、新規で眼鏡を作ろうとする方に選ばれなくなることで、だんだんお客様が減り、そして売上が減っていきました。
──そこで店舗の店装を店舗、地域に合わせたコンセプトにしたのですね。
恒吉:そうですね。その店舗が置かれているエリア、対象とするお客様を考えた場合、“金太郎あめ”のように同じ店装の店舗を出店するのではなく、地域と市場に合わせた方がいいと判断するようになりました。たとえば渋谷店は、若者の街とされる渋谷でも旧式の店装を維持していたため、およそ10年前には約800店舗中最も赤字を抱える店舗でした。そこで私の前に社長を務めていた澤田(将広氏、現パリミキHD社長)が、外観を現在のように変更しました。店装を変えて以降売上は伸び、現在では売上・利益ともにパリミキ内でもトップとなっています。
──店装を変えると、それまで安定していた5、60代の顧客が離れてしまう懸念もあったと思いますが、実際彼らの反応はいかがだったでしょうか。
恒吉:渋谷店の場合、中高年のお客様にも継続してご来店いただいていますし、中には「前の店舗よりも今の雰囲気が好き」とおっしゃってくださるお客様もおられます。エリアにあわせて若者をターゲットにしたからといって、高年齢層が離れてしまうということはなかったですね。