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「いつもマイノリティだった」IBMの人工知能「Watson」エンジニア 村上明子さん

Developers Summit 2016(デブサミ2016)村上明子氏セミナーレポート

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タイトル村上 明子
日本アイ・ビー・エム株式会社 ワトソン開発 技術リード
一般社団法人情報支援レスキュー隊 理事/ 一般社団法人人工知能学会 理事

「ギークの星」を待つ会場にピンチヒッターとして登壇

 エンジニアイベント「Developers Summit2016」は略称「デブサミ」の名で浸透しており、毎年2月に開催される冬の開催では、毎回数千人の開発者、技術者が集まる。 この日は、2日目の最終セッション。全体のトリとも言える人気セッション枠で、事前予約の来場者で満席状態だった。

 この日参加者が申し込んでいたのは、及川卓也氏のセッション。元グーグルのエンジニアで、ギークの星ともいえる存在。及川氏のセッションは、デブサミの目玉のひとつだ。
 その及川氏がインフルエンザで登壇中止になった。村上さんがそのことを知ったのは、2日前の米国アリゾナ州からの出張帰りの飛行機の中。ハードな出張のスケジュールを終え、機内で白ワインでも飲もうとしている時だった。親友でもあるデブサミの制作者の一人、岩切晃子氏が困惑しているのをクローズドSNSの「Path」で見て連絡し、即刻決まったという。 帰国後、押し寄せる業務の合間にぎりぎりまで準備をおこない、村上さんはデブサミに登壇した。

研究者として、エンジニアとして、ボランティアとして

 IBMのWatsonといえば、今話題の人工知能(AI)の代表的な存在。IBM自体は、Watsonを人工知能ではなくコグニティブ(認知)型サービスと位置づけている。 2011年にアメリカのクイズ番組「ジョパディ!」でクイズ王に勝った人間の知能に挑戦するコンピューターだ。 村上明子さんは、そのWatsonのプロジェクトの中で、開発のリーダーを務めている。それ以外に、情報支援レスキュー隊という災害対応をITで推進するプロジェクト団体の理事、研究者として人工知能学会の理事でもある。 村上さんが担当しているのは、Watsonの機械学習やディープラーニングのための「知識」を教えこませるためのプラットフォームだという。機械学習とはデータから学ぶシステム。その機械学習を高いレベルに押しあげるために大容量のデータを読み込ませ、そこから重要な相関性を発見し、文脈や関係性を理解するための基底となる部分だ。

 人工知能の研究者というと、この道何十年の威厳あるコンピュータ・サイエンスの重鎮たちが跋扈する分野だ。しかし村上さんに、そうしたベテラン風の面影はない。 開発のリーダーとはいうものの、異動したのは今年の1月。それまではIBMの基礎研究所で自然言語の研究をしていた。 そこでの実績として冒頭、IBMの100周年の時の受賞歴を紹介した。

数少ない私の会社の中での自慢ですが、100周年を記念して100年に起こった、IBMの100個のイノベーションをアイコンにしたんです。その中の一つに、私がおこなっていたテキストマイニングのプロジェクトが入りました。「Text Analysis and Knowledge Mining」の略で、「TAKMI」というプロジェクトネームでした。こう言うと「へーそうなの」っていうふうにおっしゃると思うんですが、100年の歴史を持っているIBMの全世界の研究プロジェクトで、100個しか選ばれないプロジェクトの1個に選ばれた。これだけは、自慢しているんです。

 もうひとつの村上さんの顔が、情報支援レスキュー隊の理事であることだ。災害の時には、情報が人の命に関わることを、3.11の東北大震災の時に多くの人が知った。知識を被災地の現場に届けること、逆に被災地の現場の情報をいち早くそれ以外のところに届けることを目的にボランティアとして活動している。 研究者として、エンジニアとして、ボランティアのリーダーとして活躍する村上さんは、自分でも時にはどのように自己紹介して良いかわからないという。そこから、このセッションのテーマのダイバーシティ(多様性)に話をつなぐ。

パソコン少女だった小学生時代から理系の道へ

 村上さんが会社として入社したのは日本IBMの1社のみ。当初のこのセッションのテーマであった「エンジニアとしてのキャリアの磨き方」を語るほど会社を転々としているわけではない。しかし、IBMに入社するまでには紆余曲折があったと語る。小学・中学時代はパソコン少女だった。きっかけは小学2年の時に、父親が誕生日に買い与えたNECの「PC-6001」だった。

小学校2年生の時に、お母さんに「これが欲しい」って言えって、父からパンフレットを渡されました。実際は父が欲しかったんでしょうね。「でも私リカちゃんのお城が欲しい」って言ったら、「それも買ってやるから、これが欲しいと言え」と(会場笑)

 父親は自分が欲しかったわりにはパソコンにはまることなく、娘の明子さんに大人向けのパソコン雑誌をどんどん与えていった。BASICのプログラミングにはまり、男子の友達と一緒に秋葉原に通ったりする小学生時代を過ごした。やがて中高一貫の女子校に進学した明子さんは、まわりにパソコン好きがいないことに気がついた。「パソコンは女の子がやるものではない」そう感じた村上さんは、大学に入るまでほとんどパソコンを触らなくなった。

今考えると、すごく残念なんですね。あのとき本当に好きなままでいっていたら、もっといろんなことできたかもしれないのに、環境のせいで、自分を押し込めてしまったのかなと。

 お茶の水女子大の物理学科に進学した村上さん。物理学科なのに物理好きは実は少ないと感じ、1ヶ月で辞めてしまう。しばらくは、ニートで、東北などを旅して過ごした。そして、早稲田に再入学することになる。今度こそ、心ゆくまで物理の世界にのめり込もうとしたが、別のものにハマってしまった。

車というものに出会ってしまって、カーマニアとして大学時代は車を乗り回していました。これ、あんまり人に言ってないんですが、車がその後の人生を大きく変えたんです。

 車好きが高じて、日産自動車のホームページをチェックするようになる。90年代の前半、企業のホームページなどまだめずらしい時代。当時、日産は独自のドメインもなく、ホームページはソニーのドメインの下だった。そこに掲載された情報やコンテンツに村上さんは満足できなかった。
 「もっと新車種の情報を欲しい」と考えた村上さん。当時のWebマスターにメールを送る。

こんな情報や、こんな特集を、とメールしたら「なんなら手伝いに来い」と誘いを受けて、日産のWebサイト「羅針盤」を作るメンバーになりました。社長室の直下のデジタルコミュニケーション室というところで色々と新しいことに取り組んでいたんです。

 当時はほとんど行なわれていなかったWebによるアンケートや新商品のアイデアの募集、キャンペーンの結果をモーターショーで発表するなど、今で言うWebマーケティングをおこなっていた。車とインターネット、この2つの「好き」を仕事にしたい。そう考えた村上さんは、日産への入社を希望し、中央研究所の人に相談する。アドバイスは「理系にいったのなら、いずれは車を作る道に進んだら良い。そのためにも大学院まで進んだらどうか」というものだった。日産が大学院の学費を貸与してくれるという。

 こうして物理の大学院に進み、今度は金属物性の研究に携わることになる。東海村の日本原子力研究所に泊まりこみ、金属に中性子を当てて、金属の性質を調べるという研究である。この時の経験もあり、後の震災時の福島での原子力発電所の事故では、胸を痛めることになった。

 物理の研究に没頭し、放射線資格師の資格も取得しながらも、楽しい学生時代を過ごした。大学院を終えれば、念願の日産の中央研究所の仕事が待っていると信じていた。

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車の開発者への夢は断たれた

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