何も知らない外国人
名古屋の心地よい朝。東京大学からやってきた三人の研究者が五〇階建てのビルに入った。ピカピカの大理石の床を横切ってエレベーターに乗り込み、二二階のボタンを押した。ボタンの横にはこう書かれてあった。「トヨタ自動車株式会社―受付」。
研究者たちは受付で登録を済ませ、それぞれ名札を受け取った。指示された別のエレベーターで四二階を目指す。彼らは西田氏に会うことになっていた。トヨタ車の販売、流通、サービスの効率を上げるための構想を練ることを目的として一九九五年に発足された内部特殊チームの上級マネージャーだ。
西田氏はトヨタで活躍する若い上級マネージャーの一人。三七年にわたり、会社でさまざまな役職を務めてきたが、トヨタ生産方式についてはいまだに学ぶことがたくさんあると言う。トヨタの社内研修プログラムは修了するまで二五年かかる。なのに西田氏は、基本的なこと以外はほとんど知らないと自ら語るのだ。
西田氏はくすんだグリーンのスーツを着ていた。伝統的なフォルムのアルマーニだ。身のこなしを見れば、彼が人の上に立つ存在であることがわかる。彼の後ろに続いて会議室に入るほかの三人のマネージャーを率いる存在であることが明らかだ。誰も西田氏の話を遮ろうとしないし、誰も反論しない。誰も彼の前を歩かない。
トヨタの男たちは訪問者に静かに礼儀正しく挨拶し、あたかも天皇陛下の結婚祝いに参列しているかのような誇り高さと厳粛さをもって名刺を交換する。出席者を一人ずつ手短に紹介したあと、西田氏は一人の日本人ではない研究者に問いかけた。
「外国人研究者でここに来たのは皆さんが初めてです。なぜここにいらしたのですか?」
その外国人は緊張した様子で、たどたどしい日本語でこう答えた。
「私はスウェーデンから来ました。リーンサービスの研究をしていて、サービス組織がリーンをどうビジネスに活かせばいいかを調べています。あなた方はたくさんのツールとメソッドを開発して、それを使ってあなた方の生産方式を世界で最も効率的なものにしました。それらをあなた方のサービス業にどう活かしているのか、教えていただけませんでしょうか? 例えば、セールスやサービスのプロセスにツールやメソッドをどう応用したのでしょうか?」
西田氏はぽかんとした表情でテーブルを見下ろし、ため息をついてからまた顔を上げた。今まさに敵に襲いかかろうとする侍を彷彿とさせる顔つきではあったが、その声は落ち着いていた。
「また何もわかっていない外国人ですか」
しばらくの沈黙ののち、こう続けた。
「あなたのした質問は、TPSの本質をわかっていないことを証明しています。外国人は、彼らが我々の工場で見たもの、ツールやメソッドの総体として、リーンという概念を生み出しました。その際、彼らは完全に見落としていたものがあります。目に見えないもの、我々の哲学です。彼らは繊細で目に見えないものを見落としていたのです。それが、我々がそれらのツールとメソッドを使う意味を教えてくれているのに」
「皆さんがこちらに二年間滞在するおつもりでしたら、我々の核となる哲学の理解に集中することをお勧めします。我々が何をするかは、我々の価値観と原則が決める。それを理解すれば、あなたも我々がサービス業務でどうやって効率を高めているか、わかるようになるでしょう」
西田氏は立ち上がり、ホワイトボードの前に立って円を描いた。円の横に「価値観」と書く。
「わかりやすくするために、たとえ話をしましょう。トヨタ自動車株式会社を設立したとき、我々は会社のことを植えたばかりの一本の木とみなしました。そのころ、木の育て方なんて、まったく知らなかった。我々には知識が欠けていたので、慎重にならざるをえなかったのです。決して早急な決断はしませんでした。そして、こう問いかけました。
- どんな木を美しいと感じるのだろうか?
- どんな木を美しくないと感じるのだろうか?
これらの問いに共通の答えが見つかったとき、我々は自分たちの考えを価値観にまとめたのです。価値観が、木に対してどう接するべきかを決めてくれました。最も大切な価値観は、つねに顧客を第一にすること。顧客のニーズを満たすことです。顧客のニーズを満たすことは、美しい木にたとえられます。顧客のニーズがほかの何よりも優先される。顧客を満足させることで、木を大きくすることができるのです。
いちばん重要なのが顧客で、顧客を何よりも優先しなければならない。トヨタで働く者全員にとって、我々の価値観が困ったときに答えを求める場所になりました。価値観のなかに、あらゆる状況でどうふるまえばいいかの答えが見つかる。価値観が我々にどうあるべきかを示してくれる。それらが我々の社風の中核になったのです」
西田氏はホワイトボードの図に向き直った。最初の円の下に二つの円を描き、最初の円から新しい円へ二本の矢印線を引く。新しい円の横に「原則」と書いてから話し続けた。
「大きく育ちつつある木を、我々は我々自身の価値観に従って世話しました。それがうまくいっていることを確かめるために、次の問いを投げかけました。
- 今日、我々は木をもっと美しくする決断を下しただろうか? それはどんな決断だった?
- 今日、我々は木をもっと美しくしない決断を下しただろうか? それはどんな決断だった?
- 木を明日もっときれいにするために、我々はそこから何を学ぶことができる?
毎日このように問い続けるうちに、決断の下し方という点で次第に原則が明らかになってきました。木を美しく育てるためにはどう世話すればいいのか、パターンが見えはじめたのです。そうして得られた原則が、我々のビジネスにおいて何をどう優先すべきか指し示してくれました。つねに価値観に目を向けた結果として得られた原則です。それら原則が我々の価値観を実現し、木の世話をする際の、あるいは木の世話をしない際の指針になったと言えるでしょう」
左下の円の下に、西田氏は「ジャスト・イン・タイム」と書いた。
「長い発展の末、我々の考えは二つの原則に要約できることがわかりました。一枚のコインの表と裏の関係にある原則です。一つ目の原則はジャスト・イン・タイム。フローを生み出すことです。サッカーを想像してください。チームがボールをピッチの一方の端からもう一方の端までパスでつなぎ、最後には対戦相手のゴールに蹴り入れるとき、フローが生まれます。
ボールはつねに動いている。選手の全員が協力して、ボールが流れるべき完璧なルートを見つけようとする。ボールはピッチを縦断してゴールまで流れる。基本的にサッカーのゴールは、顧客に望みどおりのものを、望み通りの時間に、望み通りの品質で届けるのと同じこと。カスタマーサービスとは、ゴールを決めることなのです」
西田氏は再び口を閉ざし、ホワイトボードに顔を向けた。右下の円の下に、ある単語を書き足した。「自働化」。
「コインのもう一方の面にあるのが自働化。ジャスト・イン・タイムを補う原則です。自働化とは少し抽象的な原則なので、わかりやすくするために、一つ質問をさせてください。サッカーチームがたくさんのゴールを決めるには、どんな前提条件が不可欠でしょうか?」
研究者たちはからかわれているような気になって互いの顔を見つめ合った。そして口々に答えた。
「優れた戦術! 巧みなキック!」
「強さとスピード!」
「チームワークと正確なパス!」
西田氏は満足そうに微笑んでから言った。
「予想通りの答えですが、すべて間違いです。あなた方は優れたフローを生むのになければならない条件ばかりに目を向けています。自働化とは、もっと単純なものです。サッカーのたとえを続けるなら、答えはあまりにも明白なので誰もそれが条件だとは思わないのです。選手の全員がサッカーのルールとチームの戦略を理解できなければならないのに加えて、全選手が、ピッチ上のどのポジションからも、次のことができなければなりません。
- ピッチとボールとゴールを見る
- ピッチ上の全選手を見る
- スコアを見る 試合の残り時間を見る
- ホイッスルの音を聞く
- チームメンバーと観客の声を聞く
選手の全員が、目が見えて耳が聞こえて、試合中ずっと、起こっていることのすべてを把握している。全体像がはっきり見えてはじめて、彼らは協力しながらどうやってゴールするか決めることができるのです。誰かがミスをしたら、あるいは誰かがゴールを決めたら、審判がホイッスルを吹く。全員がそのホイッスルを聞き、試合がストップする。これらはほとんどのチームスポーツに共通する条件です。全員が、ずっと、すべてを見ることができ、しかも審判が一瞬でゲームを止めることができる」
部屋が静かになった。そこにいる全員が西田氏が言ったことについて考えているのが明らかだ。
「組織内で、そのように根本的な前提条件を満たすのはとても難しいことです。みんな異なる場所にいて、異なる時間に異なることをバラバラにやっているのですから。現代の組織は、ピッチ上に数百もの小さなテントを張った様な状態です。そこでたくさんのボールを同時に使って試合が行われている。できるだけ多くのボールを蹴ったプレーヤーに報酬が与えられていて、彼らは自分のテントからボールをうまく蹴り出しただけでゴールを決めたような気になっている。バラバラの時間にプレーするので、ほかの選手の名前すらほとんど知らない。誰も全体像を見ていない。誰もホイッスルを聞いていない」
西田氏は「ジャスト・イン・タイム」と「自働化」のあいだにも矢印線を引いた。そしてこう続けた。
「ジャスト・イン・タイムはフローを生むことを、自働化とは目に見えるはっきりとした像を得ることを意味しています。それにより、フローを起こしたり、妨げたり、せき止めたりするものすべてを、すぐに把握できるようになるのです。この二つの原則は一枚のコインの表と裏であり、両面がそろってはじめて、つねにしっかりと顧客に目を向けて"ゴールを決める"ことができるようになる」
西田氏はまたホワイトボードに向かって、今度は三段目として六つの円を描いた。新しい円を上の円と矢印で結ぶ。すべてがほかの何かと結びついた関係だ。新しい円の横に、「メソッド」のひとこと。
「この二つの原則に従って活動し、事業を発展させていくうちに、パターンが見えてきました。今度は、我々のあり方や決断のしかたのパターンではなくて、何をしているか、あるいはさまざまな作業をどう行っているかのパターンです。何かをやっているときも、我々はつねにジャスト・イン・タイムと自働化の実現に力を注いでいました。
すると、時がたつにつれ、さまざまなタスクをどう実行すればいいかがわかってきたのです。いくつかのやり方はほかの方法よりも優れていた。そこで、さまざまなタスクを行う最善の方法を見つけて、標準化して、広めることに決めたのです。その結果として生まれたのが、いくつかの標準化されたメソッドで、いわば数多くのタスクをどう実行するのがいいかをみんなで考えて導き出した最高の答えの結集です。我々が、我々の原則を、どんな状況でも、最高の形で実現するための方法を標準化したのがメソッドなのです」
「メソッドは、毎日世話をしてできるだけ美しい木を育てるための最高の方法。一例を挙げると、ジャスト・イン・タイムを実現するために、我々は数多くのメソッドを開発しました。どれも、顧客が望むものを、望むときに、望む量で提供し続けることを可能にしてくれるメソッドです。そもそも標準化が我々にとって最も重要なメソッドの例です。実際のところ、メソッドを開発するためのメソッドと呼べるでしょう。
効率的なフローを生み、それを―これが最も大事なのですが―維持するためには、フローはある時点で標準化されなければなりません。特定のタスクがどう実行されればいいのか、誰もが同じ理解を得るために、です。でも、どうやって物事を標準化すればいいのでしょうか? 最高の作業方法をどう確立すればいいのか? ここでもサッカーと同じ問題が待ち構えています。サッカーの監督はどうやって攻撃方法を標準化すればいいのでしょうか? 標準化とは、標準をつくるための標準。メタ標準なのです!」
西田氏は外国人に向けてニヤリと笑った。
「我々は、ジャスト・イン・タイムと自働化の実現に役立ついくつかのメソッドを開発することができました。自働化を実現するのに欠かせないメソッドの一つがビジュアルプランニングです。すでに述べたように、自働化の目的は、組織を透明にして、誰もがいつでもすべてを見られる状況をつくることにあります。
それは、ビジネスにかかわる重要情報のすべてを壁に表示して見える化し、それを継続的に更新することで可能になります。社内で何が起こっているのか、誰もが一目で確認できるのですから。不測の事態が生じたとき、最初に気づいた者がホイッスルを吹く。するとみんなが手を止める。問題の原因を探り当て、改善し、また続ける。ビジュアルプランニングは自働化の実現を促すメソッド。自働化とはホイッスルである、と言えるかもしれません」
研究者たちは西田氏の言いたいことがあまりよくわかっていないようだった。西田氏は少し語気を強めて続けた。 「重要なのは、我々が"なぜ"見える化するのか、その理由をしっかりと理解することです。自働化について考えてみてください! 我々はつねに全体像が見たいのです。全従業員が彼らの進捗状況を見える化すれば、具体的に二つのことが可能になります。
工程が計画どおりに進んでいれば、すべて順調であることがわかる。それが一つ目。見える化された情報のおかげで、状況に異常がないことが確認できる。我々はなすべきことをやっている。二つ目は、工程が計画どおりに進んでいなければ、見える化された情報の助けですぐに対応できること。状況が正常でないことがわかる。正常から逸脱していることが確認できる」
「わかりますか? サッカーのピッチ全体をつねに見渡せるのは、見える化があるからです。組織全体をコントロールするのは不可能。しかし、我々の活動のすべてを標準化、そして見える化するのは可能です。見える化を通じて標準から外れたものだけを制御することで、組織全体をコントロールできるのです。異常こそが、正常状態に改善をもたらすのです」
会議室は静まりかえっていた。西田氏はホワイトボードのピラミッドに最後の段として一二個の円を書き足した。そしてさっきと同じように、上の段と矢印で結ぶ。今回も円の横に何か書いたが、すぐに消してから研究者のほうを向いて尋ねた。
「これは何だと思いますか?」
そしてホワイトボードに向き直り、手でボードをたたいた。
「これは何ですか?」
西田氏はさらに数回ホワイトボードをたたいてから、研究者たちをじっと見つめた。どんな答えが求められているのか、誰にもわからなかった。ボードをたたくのをやめた西田氏は研究者たちにゆっくりと、しかしきっぱりと言った。
「ホワイトボードですよ。私はホワイトボードをたたいているのです。これは私が一分前に開発したメソッドで、"研究者が居眠りするのを防ぐメソッド"と名付けました」
西田氏は満足そうに笑った。そしてピラミッドに向き直る。いちばん下の段の円の横に、「ツールとアクティビティ」と書いた。
「ホワイトボードはツール。それをたたくのはアクティビティ。ツールとアクティビティが、メソッドを実行する方法になる。メソッドはアクティビティ(我々がやること)とツール(我々がもつもの)で構成されているのです。標準化のメソッドを実行するために、我々はいくつかの空欄に分割されたA3テンプレートを開発しました。標準を記録するためにそれを使っています。そのテンプレートは、標準化を行うのに必要なツールだと言えます。また、テンプレートに記入する際の手順として一連のアクティビティも定義しました。ツールとアクティビティはメソッドの構成要素なのです」
西田氏はホワイトボードから少し遠ざかって、自分が描いた図を満足そうに眺めた。そして研究者たちに向き直り、説明した。
「我々の価値観が、状況や文脈に関係なく、我々がどうあるべきかを決める。価値観が我々の存在の根拠であり、つねに追い求めるべき状態となる。我々の原則が、我々がどう決断すべきか、何を優先すべきかを決める。ジャスト・イン・タイムと自働化がどちらの方向へ事業を発展させるべきかを決める。顧客の方向へ! 木を美しくするほうへ!
メソッドはさまざまなタスクを実行する方法。我々を正しい方向へ推し進めるモーターなのです。特定のメソッドを実行するために、もたねばならないものがツールで、しなければならないことがアクティビティ。一つのシステムのなかで、すべてが絶え間なく細かく結びついて、我々のビジネスがとても美しい木になるよう育ててくれる」
西田氏は自分の席に戻り、腰を下ろした。ホワイトボードを振り返ってから外国人に顔を向ける。
「以上。トヨタ生産方式の短期集中講座でした。ここで重要なのは"方式"という言葉です。これはあらゆるものが結びついているシステムを意味しています。私の話をあなたが理解できればいいのですが」
スウェーデン人研究者は緊張した面持ちでうなずき、座ったまま頭を下げて感謝の意を示した。西田氏は意地悪そうに微笑んで、最後の質問を口にした。
「最後のチャンスをあげましょう。私が『ああ、やっとTPSを本当に理解している外国人に出会えた!』と思えるように、あなたの最初の質問を言い換えてください」
西田氏は期待を込めた表情で椅子にもたれかかり、もう一度外国人に目を向けた。