ストーリーの力 : 外科医から研究者へ
30年前は臨床外科医としてキャリアをスタートさせたという山中教授。外科医を辞めた理由は、「不器用で手術が下手だったから」だという。
“手術が下手な外科医”と言うのは“ピアノが下手なピアニスト”と同じぐらい、仕事にならない。それが外科医を辞めたひとつめの理由です。
もうひとつの理由は、現代医療で直せない難病の患者がいることに臨床医として限界を感じたからだという。
どんなに優秀な整形外科医であっても治せない、ケガや病気の患者さんがたくさんいらっしゃいます。例えば脊髄損傷。たった1回のケガで、足から下、腰から下、首から下が動かなくなり、その先の人生を過ごさなければなりません。私もラグビーをやっていましたから、そういう方を知っています。どんなに優秀な整形外科医でも基本的にはどうすることもできません。こういった患者さんを将来治せるようになるとすれば、それは基礎医学研究です。そういった思いから臨床医から基礎医学の研究に変更しました。
ラガーマンでもあった山中氏は脊髄損傷とは隣り合わせ。そのことから不治の病や怪我で苦しむ人々に対する想像力があった。アスリートから外科医、そして研究者へのつながりを、患者への思いからのストーリーとして語る。そしてその思いが後にビジョンとして結実する。 きっかけは、サンフランシスコのグラットストーン研究所のロバート・メイリー所長から、“VW”という言葉を授かったことだ。
ビジョンの力 : V + W
ロバート・メイリー教授は、当時も今もフォルクスワーゲンに乗っておられます。私は、当時も今もトヨタです(笑)。VWとは、フォルクスワーゲンではなくて、“Vision & hard Work” でした。ロバート教授に、「お前のVisionは何だ?」と聞かれた私は「良い論文を書きたい、いい職に着きたい」と答えたのです。「シンヤ、それはVisionじゃない、それはShort time goalだ。本当のVisionは何だ?お前はどうして医者を辞めてアメリカまで来たんだ」そう問いつめられました。それから、自分が研究者になった理由が、脊髄損傷のような難病の患者さんを治すことだったことを思い起こして、それからずっとそのビジョンを忘れないように心がけています。
こうして渡ったアメリカで山中氏は、ES細胞と出会う。1981年イギリス、ケンブリッジ大学の研究者とアメリカ、カリフォルニア大学の研究者によって、ネズミの受精卵から培養することに成功した、この細胞との出会いが山中教授にとって決定的なものになった。
ES細胞は万能細胞とも呼ばれます。万能というとスポーツ万能、勉強万能など、「何でもできること」をいいますが、ここでは、「何にでも成りうる」という意味です。つまり、どんな細胞でも作り出すことができる。2つ性質があり、まずほぼ無限に増やすことができます。それから増やした後で神経だとか筋肉であるとか皮膚、血液、体に存在する200種類以上のあらゆる細胞を、しかも大量に作り出すことができる。だから万能なのです。