なぜ塩野義製薬はDX部門が量子に取り組むのか
寺部:DX推進本部が率先して量子に取り組んでいる点はユニークですよね。
北西:私たちは短期ではなく、中長期の視点で体制づくりを進めています。5年先、10年先を見据えて考えれば、現在の組織で量子に取り組むことは自然な流れだと感じています。生成AIも振り返れば、テキストマイニングの延長線上にありました。事前に準備を重ねていたからこそ、転換点が訪れた際にも対応できた。そうした文脈の中で、量子技術にも取り組んでいます。
もっとも、私たちは計算技術を提供するだけではなく、ユーザーでもあります。創薬を加速するために本格的に取り組みつつも、投資のタイミングや規模については冷静に見極めていく。そのバランス感覚を持ち続けることが重要だと考えています。
寺部:すると、量子以外で長期的に注目している領域はありますか。
北西:フィジカルAIやBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)など、身体や脳とデジタルが交わる領域には強い関心を持っています。ただし、現時点で明確な事業戦略として落とし込んでいる段階ではありません。技術の進展を見極めながら、中長期の選択肢として視野に入れているという位置づけです。
一方で、より切実なテーマはエネルギーです。データセンターの拡張や生成AIの普及にともない需要が急増する中、低電力での研究開発は重要な制約条件になりつつあります。量子技術も単なる性能向上の手段としてではなく、エネルギー制約の中で計算効率を高める技術として意味を持ち得るのではないかと考えています。
MRの訪問や生産計画に見る、量子技術のビジネス実装
寺部:現在、量子領域ではどのような取り組みを進めていますか。
北西:現在の取り組みは、大きく「ゲート型量子計算」と「最適化」の二本柱です。本命は将来的なゲート型量子計算ですが、実用化にはまだ時間がかかります。そこでまずは業務に直結する最適化から着手し、量子計算の価値を社内で具体的に体感してもらうことを重視しています。いわば、本格活用に向けた土台づくりです。
代表的な事例が、MR(医薬情報担当者)の訪問ルート最適化です。複数の制約条件を織り込んだ時間窓制約付きの運搬経路問題(VRPTW)を高速に解く取り組みで、通常は求解が困難な46施設の組み合わせにおいて、1.8秒で最適解を取得した実績もあります。5人のMRで50施設を訪問する際の経路も10秒程度で求解が完了します。重要なのは、現実的な制約をどこまで反映できるか、そして実務に間に合う速度で結果を返せるかという点です。
創薬関連の取り組みも進めるほか、製造ラインの稼働状況や作業者のスキルを踏まえた最適配置などに取り組んでいます。特に感染症用の薬のように需要変動が大きい分野では、一時的に生産量を引き上げる必要が生じることがあります。しかし、変数が膨大であり、一つの変更が全体に波及するため計算が非常に難しい。現状では、最終的にベテラン作業者の経験則に頼らざるを得ない場面も多いのが実情です。とはいえ、こうした領域も徐々に計算可能になりつつあると感じています。現在はまずアルゴリズムを適用し、その限界を見極めている段階です。
寺部:これらの応用については、現場の理解を得るのが難しい場面もありそうです。どのような工夫をされているのでしょうか。
北西:鍵となるのは対話と信頼です。計算には反映できていない人員の情報や、データ化されていない知識をもとに現場が動いている以上、技術だけで完結させることはできません。だからこそ、その限界も率直に共有し、最終判断は現場に委ねるようにしています。対話を重ねていく中で、現場の皆さんにも前向きに受け止めていただけるようになってきています。
