本記事は『イノベーション・アカウンティング 挑戦的プロジェクトのKPIを測定し、新事業に正しく投資するための実践ガイド』から一部を抜粋したものです。掲載にあたって編集しています。
イノベーション・アカウンティングとは?
ビジネススクールではこれまで、正味現在価値(NPV:ネット・プレゼント・バリュー)、回収期間、ハードル・レートなどを、投資プロジェクト意思決定時の指標として採用し教育してきました。ところが本書で後述するように、イノベーションの捉え方や定量評価の方法は、それぞれの組織の特性や事業分野によって異なります。
つまり現在の財務諸表は、投資プロジェクトや物的なプロジェクトの投資採算性の評価には適している一方、デジタル企業のイノベーティブな事業の評価には適していません。このような企業にとって最も価値ある資源は、企業文化やプロセス、さらには研究チーム、ソフトウェア・エンジニア、製品開発チームの時間だからです。
その結果としてデジタル企業は、既存の事業活動に対するバランスよい資金配分、資金不足への対処だけでなく、買収費用や優秀な従業員の賃金増額に使うことも念頭において、金融資本を調達します。そして、このような用途で資金調達することが株式市場で一般的に認められているからこそ、事業で利益を上げていないスタートアップのIPOが可能なのです。
したがって、デジタル企業のCEOにとって最大の関心事は、優秀な研究チームや人材を最も有望なプロジェクトに集中配置し、もしプロジェクトの見通しが悪くなったら速やかに人材を再配置することであり、必ずしも金融資本のバランスよい配分が最優先事項ではないのです。
「イノベーション・アカウンティング」(以下、イノベーション会計)という言葉は、エリック・リースの著書『リーン・スタートアップ』(2012年、日経BP)の中ではじめて登場しました。イノベーションの定量評価の意義について私たちの理解が進んだのは、すべてそれ以降です。エリックの著書が出版されて以降に収集した起業家や社内起業家の話に基づき、私たちは「イノベーション会計とは、企業のブレイクスルー・イノベーションや破壊的イノベーションの取り組みに関するデータを、収集、分類、分析、報告するように規定された原則や評価指標を体系化したシステムであり、既存の財務会計システムを補完するものである」と考えています。
イノベーション会計システムでは、各チームのパフォーマンスだけでなく、企業の戦略、ポートフォリオ、能力、文化を明確に見通すことが可能な、イノベーションの全体観を示す必要があります。この点については、以降の章で詳細を説明していきます。
民間企業であれ公共機関であれ、組織を運営している管理職で、正式な起業家教育を受けた人は、ほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。したがって、イノベーション会計システムの開発と導入に並行して、能力開発を実施する必要があります。つまりイノベーションの効率的かつ効果的な実施や、職場環境の醸成が、どのように財務的な成果につながるかを、経営陣や管理職が理解できるように教育する必要があるのです。
私たちの経験上、経営幹部のリーン・スタートアップやアジャイル開発に関する知識や理解度が高いほど、イノベーション部門が財務的な正当性を説明する苦労が小さくなるという、逆相関の関係性が成り立つようです。だからといって、「イノベーションに熟達した企業にイノベーション会計は必要ない」と考えるのは早計です。
イノベーション会計の世界へようこそ
あなたがアイスホッケーの試合を見に行ったとして、スコアボードに試合の詳細情報がまったくなく、結果の表示だけだったらどう思いますか? スコアボードにはすでに終了したピリオドの結果である反則数と得点しか表示されず、ゴールした時刻や得点者、選手ごとのペナルティ回数、現在ペナルティで拘束されている選手と拘束解除までの残り時間など、現在の状況に関する有用な情報が一切なかったらどうでしょう? 普段通りに試合を楽しめますか? この瞬間に自分の応援しているチームが優勢なのか、それとも何か手を打つべきなのか見当がつきますか? では今度はあなたがコーチの立場だったとして同じ状況を想像してください。唯一の情報源は何十年も前から使い続けている必要な情報が全然足りないスコアボードです。どうやって指揮をとればよいのでしょう? 今まで通り勘と経験だけに頼りますか? あるいは何か別の情報源を探しますか? 何を馬鹿げた話をしているのだと思われるかもしれませんが、実はビジネスの世界もこれと大差ないのです。
会計の起源は何世紀も前にまでさかのぼることができます。ところが現代社会の事業活動が指数関数的に複雑化しているにもかかわらず、企業の財務報告は1494年にイタリアの修道士ルカ・パチョリが書籍に著した複式簿記の会計システムからほとんど変わっていないのです。しかし昨今では企業文化や従業員のスキルなど、無形資産が企業の成功に及ぼす影響が高まっています。また、利益拡大の源泉としてのイノベーションへの依存度も高まっています。このような傾向により、有形資産のみを取り扱う財務会計システムの欠点がますます明らかになってきています。
財務会計システムの欠点を緩和し、補完する新たな会計システムを開発、導入することが、ビジネス上の必須事項となりつつあるのです。特に、イノベーションを成長の原動力とする企業にとっては重要命題です。
非常に多くの企業経営者が、すぐに利益を生まなかったというだけの理由で、新たなプロジェクトを早々に中止しています。非常に多くの大企業の投資方針が、リスクの低いプロジェクトに偏っています。非常に多くの投資家が、ソーシャルメディアの情報に頼って次に投資する先を決めています。非常に多くのケースで、企業文化が成功の唯一の鍵だと考えられています。これらすべてにおいて、有形資産のみを取り扱う財務会計が、いまだに「一律」の判断基準として利用されているのです。
これから本書の各章を通して、イノベーション・エコシステムのあらゆる場面に対応できる会計システムを、自社で開発、導入、利用する旅にご案内します。現在の財務会計システムを補完し、イノベーションに関する最も正確でタイムリーな情報を提供するシステムです。
ようこそ、イノベーション会計の世界へ。
イノベーション会計システムの原則
企業それぞれでイノベーションの中身は異なりますが、イノベーションの定量評価が必要という点はどの企業も同じです。業界ごとの特別なルールやしきたりに左右されない、普遍的な原則に根ざしたシステムでなければ、イノベーション会計システムは役に立ちません。
原則1 全社的なシステムであること
第一に、イノベーション会計システムは、新事業の成功可能性を予測する重要指標が連鎖した全社フレームワークでなければいけません。すべてが連鎖していることが重要です。鎖が切れていれば、取り組み全体に赤信号がともります。このシステムを全社展開すれば、社内の複数の新事業を同じ基準で比較できるようになります。評価する側は、どの新事業が継続投資に最もふさわしいかを判断できます。さらに、このシステムを使うことで、自社のイノベーション・ポートフォリオの各プロジェクトを金融オプションとして見るための視点を得られます。具体的には、金融オプションとしての期待収入、ボラティリティ、付随費用が明確になります。
全社システムとして運用するために、経営陣からイノベーション・チームのメンバーまで、イノベーション部門から財務担当者まで、社内のすべての人にイノベーション会計システムを理解してもらい、内容に同意してもらう必要があります。
原則2 情報を抽象化できること
イノベーション会計システムは「情報を抽象化」できる必要があります。抽象化は本来コンピューターサイエンスの概念ですが、友人のマット・カーの指摘でイノベーション会計にも通ずると思い至りました。抽象化とは本質的な特徴を抽出し、詳細な背景情報や説明を省く行為です。コンピューターサイエンスでは、抽象化の原理は複雑さを軽減するために用いられ、複雑なソフトウェアシステムの設計と実装の効率向上に寄与しています。
イノベーション管理に当てはめると、「抽象化」は各イノベーション・プロジェクトの日次や週次の報告書をもとに、経営陣が四半期や年単位で戦略的な意思決定を行うために必要な要点を抽出・整理することを意味します。例えば、経営陣や株主には、個々のチームの学習速度を詳しく見ることに時間を使わせるべきではありません。しかしチームの学習速度は、事業アイデアの市場投入までの時間やアイデアの生存率に重大な影響を与えます。したがって、イノベーション会計システムを適切に設計・導入し、実務上必要なデータが新事業開発チームから取締役会に滞りなく流れるようにする必要があります。
原則3 無形資産を可視化できること
イノベーション会計システムは、会計上認識される資産から利益を生み出すための戦略とともに、自社の成長資産の具体的な活用方法を説明できるものでなければなりません。
この3つ目の原則により、イノベーション定量評価における財務報告書の有用性の低下が軽減され、同時に人やプロセスといった無形資産や会計上認識されない資産をより重視できるようになります。
常にトップを走っている企業は、持続的な競争優位性を確立することで、競合他社との差別化をはかっています。そのためには、特許、ブランド、組織文化、独自のプロセスなどの戦略的資源を重視する必要があります。例えばネットフリックスは、独自の顧客別推奨アルゴリズムを他の要素と組み合わせて、他のコンテンツ・ストリーミング企業との差別化をはかっています。
皮肉なことに、このような戦略的資源や成長資産のほとんどは、財務会計システムに資産として計上されません。なぜかというと、これらへの投資は直ちに費用(主に事業運営の費用:OPEX)として計上されるからです。
イノベーション会計システムの役割は、これらの支出を可視化し、単なる「費用」でなく「投資」として分類できるようにすることです。そうすることで、潜在的なムダも見つけられるようになります。
原則4 自社が破壊的イノベーションにさらされるリスクを明示できること
イノベーション会計システムを設計する際には、自社の事業が破壊されるリスクを明確に示せるようにする必要があります。
ハイエンド技術の低コスト化と技術進歩の高速化が相まって、旧来型のさまざまな産業が頻繁に破壊されるようになりました。
クレイトン・クリステンセンは、著書『イノベーションのジレンマ』(2001年、翔泳社)の中で、はじめて「破壊理論」を提唱しました。スタートアップや小企業がデジタル技術を駆使した代替製品・代替サービスや、新たなビジネスモデルを既存業界に持ち込み、巨大企業が統べる既存業界を破壊する、というのが破壊理論の基本的な考え方です。その過程において、慢心している既存事業者は地位を脅かされたり奪われたりします。このような現象は経済界だけでなく、政界、さらには国家間紛争においてすら見られます。大まかに言えば、破壊とはより便利な、(たいていは)デジタル進化した選択肢を提供し、業界に進歩をもたらすことで、非効率な業界慣習や不透明な既得権益を得ている企業を排除する現象です。
破壊理論は、それを裏付けるような成功例だけを取り上げた偏った理論だという批判もあります。しかし破壊理論を支持するか否かにかかわらず、変化は避けられません。変化が避けられないどころか、インダストリー4.0が世界全体に影響しつつある状況を考えると、すべての産業に変化が差し迫っていると言えます。ウーバーが従来型の資産(車両)を持たずに業界のリーダーとなった事実は無視できません。しかし、業界の破壊にはスタートアップ企業が既存企業から市場シェアを奪うという以上の意味があります。破壊とは「当たり前だったビジネス」が変化を遂げることです。お金の流れや提供価値が変わるのです。破壊によって停滞していた市場に新たな競争の波がもたらされ、インダストリー4.0へと移行していくのです。
破壊理論は、過去の説明にも将来の予測にも利用できます。イノベーション会計システムの助けを借りて、自社が破壊される脅威にさらされていることを企業のリーダーに理解させ、イノベーション・ラボを超えた全社的な対策を早急に講じる必要があるのです。
原則5 イノベーション・エコシステムの改善に貢献できること
「エコシステム改善の意思決定に役立つ情報源」として、イノベーション会計システムを設計すべきです。イノベーション・エコシステムの構成要素は、プロセスと事業アイデアのポートフォリオだけではありません。イノベーション・エコシステムには、人材開発、パートナーシップ、文化も含まれます。つまり、イノベーション会計システムの役割は実施した施策と結果の因果関係を明らかにすることです。そうすることで、イノベーション会計システムから得られる知見に基づいて、効果の低い活動への投資を防げるようになります。
イノベーション会計はイノベーション管理の一部ですが、管理の対象はイノベーション・エコシステム全体に及びます。イノベーションにはさまざまな側面があることを常に忘れないでください。イノベーション会計システムは、どの新事業に投資すべき、どの取り組みをお蔵入りにするべき、といったことを判断するためだけに存在するのではありません。
スタートアップとの協業を強化すべきか、M&Aを倍増すべきか、スキル開発研修への投資を増やすべきか、といったことも、イノベーション会計システムのデータを根拠に判断すべき対象だ、ということです。
チーム、マネージャー、あるいはCEOのよりよい意思決定に役立つことが、イノベーション会計システムの究極の目的なのです。
原則6 イノベーションの重要な成功要因に注意を集中できること
データを扱う限り、膨大なデータに溺れることはありえますし、むしろ簡単に溺れてしまうでしょう。現代ではほとんど何でも測定可能なため、測定可能なものをすべて測定しようというのは、進むべき道ではありません。イノベーション会計システムでは「重要なものだけを見る」姿勢が重要です。
これは新事業開発チームのレベルでも、全社レベルでも同じです。データに溺れることは、データがまったくないのと同じくらいまずいことです。なぜでしょうか? なぜならデータのないチームや組織は、短絡的な行動を起こす傾向があるからです。その行動は正しいか、直感以外の何に基づいているのか、といった議論はそっちのけです。そして、あまりに多 くのデータを収集したチームや組織も、膨大な数の選択肢、すなわち可能性の幅広さに圧倒されて、思考停止に陥りかねません。
その意味では、イノベーション会計システムの主な役割は、適切なことだけ、必要なことだけを定量評価することであり、選択したすべての測定指標に存在理由があるべきです。それぞれの測定指標が、企業、製品、あるいは個別プロジェクトの重要な成功要因(KSF)に紐づいているべきなのです。