情報資産を守り抜き、創薬の未来を切り拓く。攻めと守りの量子戦略
寺部:あらためて、製薬会社として量子技術に取り組む理由は何でしょうか。
北西:量子技術において重要なテーマの一つが暗号です。
製薬ビジネスの本質は「薬」と「情報」にあります。化合物のデータ、臨床試験のデータ、さらには特許出願前の情報まで、いずれも事業の根幹を支える極めて重要な資産です。また、共同研究も数多く行っており、こうした機密情報のやり取りが日常的に発生しています。量子時代の到来によって既存の暗号技術の安全性が揺らぐ可能性は、決して無視できません。量子技術を「攻め」の手段として活用するだけでなく、「守り」の観点から備えることも不可欠だと考えています。
また、私たちの第一の使命は創薬ですが、その価値は社会のニーズやトレンドの中で成立しています。将来的には、環境負荷を抑えながら薬を生み出すこと自体が重要な価値として評価される時代が来るかもしれません。製薬は創薬段階から見ても計算負荷の大きい産業であり、人体にはいまだ解明されていない領域も多く残されています。今後も計算資源を活用した研究が進んでいく分野であり、量子計算への期待もその延長線上にあります。

もっとも、本格的に取り組むためには人材育成や長期的な投資が不可欠です。しかし、本業の延長線上にない領域に十分な資源を振り向けることは、現実には容易ではありません。だからこそ、個々の企業の参入障壁をいかに下げるかが重要になります。これは一企業だけで解決できる問題ではなく、社会全体でプレーヤーを増やし、エコシステムとして底上げしていくべき課題です。今は仲間を増やす時期に来ていると感じています。
寺部:今後、仲間を増やしていく先に見据える理想の形はありますか。
北西:重要になるのは、業界を超えた協業だと思います。たとえば電力問題のような社会課題を軸に据えれば、異業種が自然に結びつく可能性があります。量子暗号であれば通信分野、材料設計であれば素材メーカーなど、接点は想像以上に広い。製薬という枠にとどまらず、エコシステム全体を俯瞰する視点がこれからは求められるでしょう。
業界を超えたエコシステムで量子の社会実装を加速する
寺部:量子に関心はあるものの、踏み出せていない企業に向けてメッセージをお願いします。
北西:まずは身近なテーマから一歩を踏み出すことが大切だと思います。最適化のように、すでに実用段階に入っている領域もあります。重要なのは「量子をウォッチする」側にとどまるのではなく、実際に触れてみることです。その経験が、自社にとっての可能性を具体的なものへと変えていきます。取り組む企業が増えれば、機運は自然と高まります。自社での活用にとどまらず、社会全体にどう貢献できるかという視点で捉えていただきたい。そしてできれば、量子の「ファン」になってほしいですね。
寺部:ご自身としての手応えはいかがですか。
北西:大きな変化の初期段階に立ち会えていること自体に、とてもやりがいを感じています。データサイエンスも、10年以上をかけて徐々に浸透してきました。量子もまた、突飛な存在ではなく、こうした取り組みの延長線上にある技術だと捉えています。時間はかかっても、着実に社会実装へと向かっていくと信じています。

