現在のスタートアップブームは「第3のバブル」となるのか?
栗島祐介(Supernova, Inc. Co-Founder & Director / Community Producer):
さまざまなご縁で今回から、スタートアップエコシステムに関しての鼎談連載をご一緒させて頂くことになりました。よろしくお願い致します。
加藤由将(東京急行電鉄株式会社 「東急アクセラレートプログラム」運営統括):
こちらこそ、よろしくお願い致します。
栗島:
連載のテーマが「スタートアップ・エコシステム」という“壮大”なものなので、少しハードルが高いようには思いますが、加藤さんとご一緒することで色々と探っていければと思います。早速、本題に入りたいと思います。
過去を振り返ると「ビットバレー構想」が持ち上がり、渋谷がITベンチャーやスタートアップ企業が集う街になっていった理由を、都市もしくは街の観点からどういった要因があるのでしょう?
加藤:
バブル崩壊の影響を受け、1997年に日産生命、1999年に東邦生命、2000年に第百生命と千代田生命など、「渋谷系生保」と呼ばれた中堅生命保険会社が続々と経営破綻し、オフィス床が短期間で大量に供給されたことで渋谷の賃料が下がりました。オフィスを借りる会社が急には見つからず、当時与信が通らなかったベンチャー企業を入居させ始めたのが渋谷だったようです。もう一つの大きな要因としてあったのは、渋谷は学生が集まりやすく、インターンが採用しやすかったということでしょう。つまり、「賃料の安さ」と「労働力の確保」が決め手になったのではないでしょうか。
栗島:
なるほど、ベンチャーにとっても「安価な労働力の供給源」として大学が近くにあることは望ましいですね。渋谷のすぐ近くの駒場には東京大学もありますしね。
加藤:
まさに東大生が渋谷近辺のベンチャーでインターンをしていたり、慶應は日吉、東京工業大学も大岡山ですから、自由が丘で乗り換えれば渋谷にアクセスしやすい。労働力の確保は、大型採用ができないベンチャーにとっては渋谷というエリアではプラスに働いたのでしょう。丸の内のように街全体が「エリートなサラリーマンの集まる場」だと入っていきにくいものですが、渋谷はそのぶんカジュアルだった。
栗島:
「ビットバレー構想」のただなか、2000年代前半の時期はどういった雰囲気だったのかはご存知ですか?
加藤:
私が東急で勤め始めたのが2004年からなので、ビットバレー時代はつかみきれないところもありますが、聞くところによると1990年代後半は「SHIBUYA109」の全盛期で、とにかく渋谷には若い人がたくさんいて、ファッションのみならず流行や情報の発信地にはなっていたとのこと。たくさんいた若者のうち、どれくらいがベンチャーでインターンをしていたかは数字がないためわかりませんが、ビジネスサイドにおいてもその雰囲気はあったのではないかと。ごちゃごちゃとした都市の感覚、あるいは日々入れ替わる路面店の感覚が、チャレンジ精神の旺盛さとあいまって「多様性と寛容性が溢れる渋谷という都市空間」を形作っていたと思いますね。
栗島:
ただ、ビットバレー構想はその後でしぼんでしまった。値上げなど色々要因があったと聞きますが、要因は何だったのでしょう。
加藤:
過度な資金供給が行われてしまったのが一因だと思います。スタートアップバブルのようになり、実体が伴わない投機的投資が横行した結果、破綻する会社が出ました。適正に戻ったという見方も出来ますが、いつのまにかビットバレーという言葉は使われなくなっていった。
栗島:
その時代にモノになったものだけが残ったわけですね。
加藤:
藤田晋さん率いるサイバーエージェントや、熊谷正寿さん率いるGMOインターネットグループ(当時の社名はインターキュー)が代名詞でしょう。