経営戦略と人材戦略の分離はなぜ起こるのか
田中弦氏(以下、敬称略):前編では、「日本では人的資本経営によって解こうとしている課題が多方面に渡り、かつ共通化した指標や目標がないことが情報開示の難しさにつながっている」ということがわかりました。松井さんは、実際に日本企業が行っている開示の内容をどう見ていらっしゃいますか。
松井勇策氏(以下、敬称略):たとえば、田中さんが以前とても評価されていた北國フィナンシャルホールディングスの統合報告書(2022年3月期)は、とても良い内容だと思います。
しかし、それでもやはり、経営戦略と人材戦略の結びつきがまだ弱いと感じます。同報告書の中では、事業戦略として「金融業の多角化を目指す、業務軸を拡大させる」ということが書かれており、戦略の軸となっているのですが、それに対応した人材育成をするという話は出てきません。
今回の場合は、「業務軸を拡大させることで組織体制や風土がこのように変化し、それに応じた人材活用や制度はこう変化していく」というストーリーの示し方などが想定できますが、人材に関するパートでは、「働きやすい環境を整備し、人を活かせる組織を目指します」というように、別のロジックで書かれているように見えます。
田中:よくあるパターンですね。たとえば、社長がインタビューで「我が社は組織風土改革をやっています」と語っていても、人材の話になると「社員の研修はこういうことをやります」とか「人材配置はこうしています」という話ばかりになって、組織風土改革とのつながりがない。なぜか、経営・事業戦略と人材戦略が分離してしまうんですよね。
松井:開示が義務化されることによって、今後はどの企業でも経営戦略と人材戦略の結びつきが強まっていくのか、それとも今の延長線上のままいってしまうのかが気になるところです。
田中:僕が特に懸念しているのは、プライム市場に上場している企業の開示方法です。プライム市場であれば、海外の機関投資家も対話の相手になります。そうなれば、前編でも触れたような欧米で最も重視されているESG項目に関する開示が求められますが、それと人材戦略についての話とが分離してしまうという問題が起きてしまいそうです。
松井:『人材版伊藤レポート』で人的資本経営を“人事”ではなく“人材戦略”と表現し、経営や事業にも精通するCHROの設置を求めているのは、そのような分離をなくしていこうという狙いがあるのだとは思いますが、なかなか難しいでしょうね。
ただ、私がこれまで見てきたスタートアップの中には、人的資本のマテリアリティ(重点課題)に基づいて経営陣が議論を重ねていくうちに、経営戦略と人事戦略が結びつくストーリーが自然と出来上がっていったというケースもありました。
田中:スタートアップと大企業では、人的資本経営を扱う所轄の部署が異なる場合が多いのだと思います。大企業の場合、人事の中でも採用、教育、労務など分野ごとに担当が分かれていますからね。たとえば、労務系の担当者が労働時間やその男女差といったデータを出しても、そこから彼ら彼女らが経営戦略に結びつくような分析を行うのは難しいでしょう。
松井:たしかに、おっしゃる通りでしょうね。それが実感できるものとして、厚生労働省が運営している「女性の活躍推進企業データベース」というWebサイトがあります。女性活躍推進法に基づき、全国の企業が女性の活躍状況に関する情報・行動計画を公表しているサイトです。
かなり有名な大企業でも、同サイトに掲載している計画書の内容と、サステナビリティ報告書などに載っている女性活躍推進の方針や目標が異なっているケースがよく見られます。各部署や担当者がそれぞれで取り組みを進めているため、そのようなことが起こっているのでしょう。