「AIが仕事を奪う」という議論には意味がない
佐宗:(biotope 代表取締役社長)
近年、ディープラーニングや機械学習といった人工知能関連のキーワードが注目されています。とりわけ画像認識などパターン認識の技術が進みつつありますが、それを追求していくと「新たなパターン」を見つけ出せるようになり、人間のクリエイティビティにまで進出し、仕事が奪われてしまうのではないかと危惧する人もいます。安宅さんはどのように思われてらっしゃいますか?
安宅(ヤフー株式会社チーフストラテジーオフィサー:CSO):
近い将来も含めて、今の段階で危惧するのはバカらしいと考えています。自然言語処理、画像認識、機械学習にもとづく人工知能なんて、どんどんやればいいでしょう。これらのキカイによる情報の識別と予測を「パターンを見出すための“下準備”」と捉えれば良いかと思います。確かにキカイでの「識別」はどんどん進んでいて、画像はもちろん、音声や感情などの識別も相当レベルまでできるようになってきています。これまででは発見できなかったような異常値の検出も劇的に容易になってきています。
ただ、それだけで、この間述べた通り、市場を生み出すような新たな「気づき」を容易に得られるとはまったく思いません。気づきの下準備ができることと、気づきを得ることは別の話です。異常値がいくら綺麗に見えても、どれとどれが質的に同じようなものなのかは我々が考える必要がありますし、それらを引き起こす複合的な背景、構造的な背景は我々が見立てに基づいて解明していく必要があります。
さらに、私たちが市場創造や、商品・事業のターンアラウンドのために取り組むべき「発想」や「構造化」は、データやAI(キカイ)的に自動化しうる情報の識別とは、情報のメタ度と複合度が全然違ううえに、どのレベル、どの切り口で見ることが意味があるのか自体が重要な判断なので、そもそも意味を理解していないキカイには当面出来るとは思えないし、できたとしてもかなり先の将来になるでしょう。実際には、キカイ以前にできる人間自体がほとんどいないわけですから(笑)。危惧するより、すごく遠い将来に、実際にそうなってから考えればよいのではないかと思います。
入山(早稲田大学ビジネススクール准教授):
確かにそうですね。そこに期待するよりも、人間が得意なことは人間がやった方がいいでしょうね。
安宅:
そう思います。キカイができるパターン認識のヒトとの違いは多くはその圧倒的なスピードです。また、これらは、ここまで議論してきたそもそもの場面、ユーザー、機能、イメージといった複数の情報レイヤーをまたがる構造化とは全く異なる、画像や音声など同質のデータを並べた時の話です。
ということで、市場や世の中の立体的な理解については、研究としてはありだと思いますが、自動化出来る見込みはまだ立っておらず、まだまだ圧倒的に熟練した人間の方がアドバンテージを持っています。このような特殊というか高度な用途にビジネスとしてお金をかけてこの段階で賭けるのはどうかなと思います。それよりも、自動走行で深夜バスの運転リスクをとか、人探しの際に2000万人の顔認識をするとか、田んぼの雑草をひたすら識別して刈り取るとか、人間では体力的、物量的にできないからこそ価値のあるところでキカイの力を活用し付加価値を生み出すべきではないでしょうか。
入山:
前々回、前回の話とも関連しますが、人間がアドバンテージを持つところというのは、漠然とした状態で「答えのあたり」をつけること、というわけですね。
安宅:
はい。ばくっと世の中を見て、市場がどう分かれているか、複数の情報レイヤーを横断して立体的に判断するようなことです。これらは、当面、キカイには無理ですよ。そもそもキカイ(AI×データ、ロボット)は我々と同じ身体、システムを持たず、生存本能もない上、先程申し上げたとおり、対象の「意味」を理解していませんから。しかし、この意味理解がないと横断的に意味合いを把握することはできません。
例えば機械学習をさせるにしても、正解か、スカラー量(大きさのみを持つ量のことで、大きさと向きを持つ「ベクトル」に対比する概念)としての目的関数、評価の軸をこちらで定義して入れる必要があるのに、そもそも正解を教えられない上、評価をするためのスカラー量が定義できません。
それでもどんどん技術が進化して、人間の知恵をうまく入れてできるようになれば、それはそれで厄介でもありますが…。
佐宗:
厄介というのは、どのようなことが懸念されるのでしょうか?
安宅:
人間としての尊厳に関わるんじゃないでしょうか。人間でもできる人間は少ないわけで、それがキカイにできてしまえば大問題ですよね。
佐宗:
以前、棋士の羽生善治さんに同じようなことを伺ったんですが、その時は「アルゴリズムの構造をわかって壊せる一部の人と、そうではない人の二極化が進むのではないか」とおっしゃっていましたね。
安宅:
ああ、そうかもしれないですね。実際にそのようなことが可能になる時には、そのメタ的な理解を実現するためのアルゴリズムを作り、改善する側のヒトとただそれに使われる側のヒト、もしくはそのようなAIやデータのパワーを使う人と使わない人という感じになると思うので。
とはいうものの、アルゴリズムの構造理解の是非に関わらず、「雑な状態で答えを見出す」ことは生き物が“生き物として”得意というか、やってしまうんですよ。たぶん、それまで犬しか見たことがない猫でも、コモドドラゴン(※世界最大のコモドオオトカゲの別名)を見たら、逃げるかフリーズするかでしょう。自分より体が大きい、歯が鋭いとか、分析するよりもぱっと見で十分恐怖を感じるはずです。この雑な状態で答えを出すのは、生き物だからできることです。
そもそも人工知能って、人が使うための道具じゃないですか。大阪まで歩かずに新幹線で行くように、人工知能を利用すればいい。新幹線の方が人間より走るのは速いけど、そこに恐怖なんて感じないですよね。人間のクリエイティブを補完してくれるなら、存分に利用すればいいだけだと思います。
入山:
やはりクリエイティブの源泉は「生き物であること」に起因するというわけですね。
安宅:
そうですね、そここそが本質だと思います。生きているので生存本能があり、それが危機意識とか、快適性というような最も深い、ベースになる価値判断を生み出します。たんなる身体性の問題を超えた部分がそこにはあります。これらが複合的に社会的な意味合い、検討のコンテキストなども組み合わさって、我々の判断が行われています。これらの複合的なかかわり合いを考えると、その辺りはとても神秘性を感じます。だからこそ、人の知覚、脳神経科学に興味を持ったともいえますね。