ウォー・フォー・タレントがアメリカで注目された当時の背景
日置 圭介氏(ボストン コンサルティング グループ パートナー&アソシエイト・ディレクター、日本CHRO協会主任研究委員、以下敬称略):中島さんは一橋大の商学部を卒業後に、日本開発銀行に就職され、ファイナンスの世界でキャリアを歩みはじめました。そこからマッキンゼーに転職され、その後、現在に至るまで、HR関連を中心したコンサルティングに従事されています。なぜ、ファイナンスや戦略から組織・人事という領域にシフトされたのでしょうか?
中島 正樹氏(MN & Associates代表、以下敬称略):マッキンゼーで戦略を中心に企業の変革に参画した5年間は非常に充実していました。ですが、あるときに今までやってきたプロジェクトを振り返ると、日本の企業は戦略以上に、戦略を機能させるために必要な組織や人のマネジメントに大きな課題があるということに気づきました。そこから、人と組織の変革に関わるようになりました。
日置:なるほど、そういう軌跡だったのですね。当時、『ウォー・フォー・タレント[1]』の翻訳に参加されていますね。
中島はい。原著が出たのが2001年ですが、そのベースとなった「ウォー・フォー・タレント調査」が行われたのが1997年と2000年です。1997年の調査結果が面白いので各国でもやってみようじゃないかという話になり、私もそのイニシアチブに参加させてもらいました。戦略の仕事をしながら、人と組織の課題に気づきはじめた時期でしたので、その流れで本の翻訳チームにも入らせてもらったというわけです。
日置:中島さんは2019年に刊行された『Talent Wins(タレント・ウィンズ)[2]』も監訳されています。その2冊の間の約20年で、経営と人材がどのように変化したのかを本日はお伺いしたいと思います。
中島:『ウォー・フォー・タレント』が出た当時、アメリカの経済は絶好調でした。2000年にネットバブルが弾けるということはありましたが、そこまではとにかく好景気に沸いていたという環境でした。
そして、企業は競争優位性をどこで築くか、どこに投資するかという戦略を立てるとき、工場や設備といったタンジブルアセット(有形資産)よりも、ブランドなどのインタンジブルアセット(無形資産)を重視するという流れが既に始まっていました。その頃のフォーチュントップ10は、GM、フォード、クライスラーの自動車3社やIBM、シティコープなどが入っていて、まだまだ伝統企業が強かった。でも、そういう会社でもだんだんと優秀な人材が採れない、既存のビジネスモデルが陳腐化するなどといった変化が徐々に顕在化しはじめていました。「名前も知らないシリコンバレーの会社に、採用しようと思っていたMBAのトップスクールの卒業生を取られた」みたいなことが起きていた。そんな状況の中で「ウォー・フォー・タレント調査」が行われたのです。
[1]『ウォー・フォー・タレント ― 人材育成競争(Harvard Business School Press)』(エド・マイケルズ、ヘレン・ハンドフィールド・ジョーンズ、ベス・アクセルロッド 翔泳社 2002年)
[2]『Talent Wins(タレント・ウィンズ) 人材ファーストの企業戦略』 (ラム・チャラン、ドミニク・バートン、デニス・ケアリー、アンドレ・アンドニアン 日本経済新聞出版社 2019年)