CSR経営やSDGs活動を戦前から先取りしてきたミズノ
ミズノは1906年に創業した水野兄弟商会が前身となって、以降社名を変えながら今日まで事業を継続してきた、いわゆる“100年企業”です。創業時からスポーツ用品を人々に売り、第二次世界大戦の直後は大赤字を出しつつ、それでも経営を途絶えさせることなく事業を継続してきました。そして今では、“世界的有名企業”です。
著者によれば、ミズノは昔からブランド戦略や宣伝において特徴的であったといいます。本書に書かれている例を紹介すると、それは1925年(当時:美津濃商店)の『アサヒスポーツ』にて掲載された広告に見ることができます。
1925年といえば既に第一次世界大戦が終結した後になりますが、日本人は明治時代の文明開化以来、ずっと西洋の文化や製品の虜になっていました。西洋の品は「舶来品」と呼ばれ、「和製品」と呼ばれていた国産品よりも優れたものとして定着していたのです。そこに、株式会社になったばかりのスタートアップ美津濃商店が訴えかけます。それは、前述のような日本の現状を問題提起したうえで、「これからは『和製品』を『日本品』、『舶来品』を『外国品』と呼んでほしい」というメッセージでした。国産品も西洋品と肩を並べるほどハイクオリティだと訴えることで、消費者の意識を変えさせようとしたそうです。
こうした“社会に物申す”ようなインパクトのある広告を、ミズノは遥か昔に打ち出していました。これは現在パタゴニアなどが行っている、注目を浴びている広告の手法です。また、この広告の背景には日本の小売や流通、内需拡大の進化を図ろうという社会貢献的な目的もあったようです。
このような例をはじめ、ミズノはこれまで社会貢献的な事業やプロジェクトに数多く取り組んできたと本書は述べています。それも、CSRやSDGsが世界中で提唱されるようになるよりもずっと以前からだといえるでしょう。たとえば、本書では山形県朝日町をプロデュースした同社の地方創生活動が紹介されています。
本取り組みでは、「もしもスポーツ用品のグローバル・ブランドが町をアスリートのように支援したら」という発想の下、「ASAHI TOWN Wears MIZUNO(朝日町民はミズノを着る)」というスローガンとロゴ入りのタグがついたコラボアイテムを、多数リリース。結果、人口7,000人程度の朝日町民のほとんどがそれらの製品を購入し、町のあらゆる場所で同社のアイテムを身に着けた人が見られるようになりました。さらに、町の高齢者がミズノのシューズを買うためにわざわざ電話をかけてくることもあるといいます。
プロジェクト発案当初は、“7,000人”という、大企業からしてみれば小規模のマーケットに難色を示す社員もいたようですが、結果として市場のほとんどを独占し、長期顧客まで獲得した本取り組みは、利益的観点から見ても大成功だったといえるのではないでしょうか。著者はこの成功を、ミズノが「モノを売る」企業ではなく、「共に歩む」企業であるからこそ成し得たものだと述べています。
以上のような取り組みをはじめ、先進的な戦略や注目すべき取り組みを数多く生み出してきたミズノですが、本書では次に、同社の意外な信条について書かれており、それは積極的な取り組みの数々からは想像しにくい意外な内容でした。