インターネットに可能性を感じて2000年に起業
──まず、佐谷さんがどのような経緯で現在の事業を始めるに至ったのかを教えてください。
佐谷宣昭氏(以下、佐谷):九州大学の建築学科を卒業し、そのまま大学院へ進んで5年間都市計画を研究していました。5年間も大学院にいるとそのまま大学の教員になるケースが多いのですが、私は自分の研究を社会の役に立てたいと考え、卒業後は社会に出る決断をしました。進路として設計事務所やゼネコンも考えましたが、それは大学院まで出なくてもやれたはずです。そこでいろいろと悩んだ結果、自分でインターネットに関する事業をやろうと思い立ちました。これは、大学院生だった1995年に「Microsoft Windows 95」が発売され、それをきっかけにインターネットが普及したことが大きかったですね。大学はインターネットの環境を整えるのが早く、学生時代からインターネットに触れることができていたんです。
──インターネットに関して周囲よりもアドバンテージがあると考えられたのですね。
佐谷:そうですね。たとえば街の再開発において、ビフォー/アフターをCGで提示できればわかりやすいじゃないですか。ところが、都市開発の現場で働いているOBの先輩方はみな、パソコンやインターネットに不慣れでした。私は当時からかなり頼られており、「自分が当たり前のように使っているパソコンのスキルは、今後世の中全体で当たり前のように使われることになる」として、その未来に向けてインターネット関連の事業に取り組むことが、自分にできる最大の社会貢献なのではないかと考えました。
──そして卒業後すぐ起業されたということですね。
佐谷:はい。大学院を修了した2000年に起業しました。インターネット対応の携帯ユーザーが一気に増えることで、メールでのコミュニケーションが当たり前になり、広告業界もマスメディアを用いた広告からダイレクトマーケティングに移行すると予想していました。実際インターネット産業のなかで最初に盛り上がったのはインターネット広告ですが、広告効果が計測しやすいのでこれは当然の流れですよね。つまり、企業は個人のメールアドレスを取得し、そこにメールを配信することで、消費者と直接つながる世界が主流になると予想していたわけです。そこで最初に始めたのが、Eメールを中心とするマーケティング支援ソフトウェアの開発事業でした。広告を出稿し、広告を見たユーザーにメールアドレスを登録してもらい、それをデータベースで管理しながら運用するシステムですね。
──当時は産業自体が黎明期だと思いますが、事業環境としてはいかがでしたか。
佐谷:当時の事業者の総数はおよそ400万。それだけの数の事業者に対してエンジニアは20万人程度しかいませんでした。しかもその多くは基幹系のシステムや、WindowsやMacOS上のスタンドアローンのソフトウェア開発を専門としており、インターネットを扱えるエンジニアとなると1万人くらいしかいなかったかもしれません。供給よりも需要の方がはるかに大きい時期です。そのため、ホームページやデータベースが作れてメール配信や顧客管理もできるシステムは大きく拡大できると考えていました。当時のインターネット業界では、個社ごとにシステムを作って納品(SI、システムインテグレーション)し、数千万円をいただくビジネスモデルが主流でしたが、私たちはそのモデルではなく、プラットフォームを作って利用料をいただくモデルを選択しました。SIだと2000万円は必要となるシステムに「うちは月額5万円でいいです」と言って展開していたので、当時は異端児扱いされていました。