なぜ議論は噛み合わないのか──自分の認識の外側にある“得体の知らないもの”に気づく「相対化」への恐れ
最近ありがたいことに多くの講演の機会をいただく。どこで講演をしても共通して聞かれる質問がある。
講演の内容は理解できた。しかし、自分の会社(組織、業界)は保守的で実践することができない。上司が話をわかってくれない(あるいは、部下の意識が低い)。どうしたらよいですか?
この質問には無視出来ない日本の企業社会の大きな課題が潜んでいると考えている。その質問へ私は直ぐに答えを出すのではなく、2つの問いかけをするようにしている。
ひとつは、「組織の中でどうしたらよいかわからなくて困っていることを誰かにまず語ってみてはどうでしょうか?」というものである。そしてもうひとつは、「あなたは上司(部下)がわかってくれないと言いますが、あなたは上司(部下)をどれだけわかっていますか?」というものである。
なぜこのような問いかけをしているのか。実は明確な理由がある。
まずは、冒頭の質問がなされるような状況を、どのように解釈できるか。読者の皆さんと一緒に考えてみたい。そもそも、この質問を投げかけてくるのは、自分自身が良いと思っていること、もしくは当たり前だと思っていた前提とは、“別の世界があることを知ってしまったから”である。つまり、自分が「相対化」されたのである。相対化されるとは、よくわからないものが自分の認識の外側にあることを知ってしまうことである。
そして、その得体の知れないものがもたらす不確実性に人は恐れを抱く。そして、相対化されたことにある種の苛立ちや、葛藤を抱えることになる。その時に、私達はなんとかして相手にこちらの正しさをわからせようとするし、そのための方法を考えようとするだろう。
なぜならば、まだこの段階においては「私が正しく、相手が間違っている」という認識に立つからである。しかし、その前提を一度保留してみる時に、実践的、実用的な新たな視点が開けてくる。
冒頭の質問に対するひとつめの問いかけの意味は、「答えを知っていなければならない」という前提を保留し、違う在り方があるということだ。また、ふたつめの問いかけの意味は、自分の正しさを保留し、相手にも相手なりの正しさがあることを認め、その接点を探していくことだ。そのことを理解してもらうために、あえて質問に対して問いかけを戻したのである。
このような考えは、ナラティヴ・アプローチという思想を背景にしている。これは一体何なのかについて考えていきたい。