武術とマインドフルネスの共通点とは?
藤田:
真の意味のマインドフルネスは、既にあるつながりの世界に深く気づき、それを静かに聞き取り、繊細に感じ取っていく「受信モードの状態」と言えます。自分のほうからつながりを作っていく能動的なものではないんです。それでは単なる押しつけになってしまうことが多い。自我的なものはどうしても行き過ぎになりがちですから。これって、「武術」にすごく近い感覚なんですよね。
入山(早稲田大学ビジネススクール准教授):
えっ、武術ですか??
藤田:
そう、武術ではとっさの判断が怪我や死につながることがあります。でも、「勝とう」という気持ちが先走っては実際には勝てない。そもそも日本の武術では、勝敗というレベルを超えたその先のレベルが考えられている。自分を殺しにきた人を友人にしてしまうというような。そもそもの勝ち負け自体が解消するような、メタなレベルの勝ち方を“格上”とする考え方があります。勝ち負けという場そのものを変えてしまう技みたいな……。
佐宗(biotope 代表取締役社長):
孫氏とクラウゼヴィッツの兵法との考え方の違いのようですね。孫氏が戦わずして勝つことを重視しているのに対し、クラウゼヴィッツは目の前の戦いをいかに勝つかという視点ですね。
入山:
藤田さん、それは「死ぬこと」も受け入れるということですか。
藤田:
そう、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もあります。「絶対死なないようにしよう」というスタンスを放棄して「必要なら死んでもいい。本望だ」となると、むしろ生きる可能性が高まるという逆説ですね。でもそこはとてもトリッキーで、生き残るためにそのテクニックとして「死んでもいいと思い込む」というレベルではダメなんです。本当に「身を捨てる」というあり方にならないとそれが功を奏しない。
入山:
マインドフルネス状態になるというのは、「それを意識しないこと」「我を捨てること」といいますよね。それと似ているということでしょうか。
藤田:
そうですね。「つもり」を捨てないと無理ですね。「マインドフルであるつもり」ではあくまで自意識があって、エゴが残っている状態。それを捨てて初めて得られる境地があるわけです。それが「無心の境地」と言われているものです。無心のマインドフルネスでしょうかね。エゴは、自分と自分ではないものの境界線を自分の輪郭にしているものです。それを薄くしていって最終的には消える。でも、一生懸命に消そうとする主体は何かといえばそれはやっぱり自分なので、自分で思い込んで消すのとは違うんですよ。無我になろうとすればするほど、我が強く出てきてしまうというのと同じですね。ここが難しい。
入山:
そのジレンマに誰もが苦しんでいるわけですが、その答えが「悟り」ということですね。
藤田:
そういうことになりますね。でもちゃんとそこに至る道筋がありますよと示した最初の人が、仏教でいえばブッダだったわけです。それなら、どうすれば悟りを開くことができるのか。それについては、様々なアプローチがされていて、お二人がなさっているような様々なアナロジーから考えるのも1つの方法だと思います。