20世紀ヨーロッパにおける、絵画を“言葉で捉える”試み
藤幡氏は前編で、個性を発揮して新しいものを創るのではなく、過去の美をなぞることを教える日本の美術教育について憂えた。すでに確立したものを習い覚えさせるのが、日本の教育の基本的な考え方なのだ。
逆にヨーロッパにおける美術教育は何を教えようとしているのかというと、「知覚を通して世界をどう見るか」だ。
私とあなたでは、世界の見え方が違う。私にはどのように見えているかを描くのがビジュアル・アーツなんです。
モネなんてわかりやすいですよね。印象派の絵というのは、それ以前のドラクロワとかコローのような、写実的な絵に対するアンチテーゼとして出てきたものです。『僕らの眼に見えているのはあんな煤がかかったような暗い世界ではなくて、もっと光に満ちた明るくて薔薇色の世界なんだ』というわけです
もうひとつ、藤幡氏が大いに嘆くのが、日本人のアートの見方だ。かつて評論家の小林秀雄が絵や音楽の鑑賞の仕方について「言葉は邪魔になる」「心で見ればいい、聞けばいい」という意味の評論を書き、それが世間に浸透した。
しかし同時代のヨーロッパでは、アートを言葉で説明し、解釈するということは非常に重要なことだった。
20世紀には、作り手による作品、それを批評する人、さらにその状況を伝えるジャーナリスト、という三角関係が、とても良くできていました。ある作品について作家と批評家が喧嘩しているとか、そういうジャーナリズムに乗って、一般大衆が展覧会を観に行く──美術だけでなく演劇も音楽も、このような構造で文化的な共有がなされてきました
批評は言葉を用いて行う。美術に限らず、高次元なものを(誰にでも伝わる言葉という形で)一次元なものに置き換えるのが、当時の知識人の仕事だったのだ。
アートは言葉で説明できるという考え方を突き詰めたひとつの例が、『イコノロジー(図像解釈学)』です。アビ・ヴァールブルクというドイツの研究者が始めた学問分野ですが、彼は後期イタリアルネッサンスの絵画を、『観るものではなく読むものだ』と言ったんです。マニエリスムの時代に描かれた絵画を研究して、『フクロウは知恵を象徴している』だとか、描かれているアイテムひとつひとつに記号的な意味が込められていることを証明したんです
しかし、このような潮流は当時の日本には伝わらず、日本人には「絵画を読む」という態度は浸透しなかった。