経営戦略論の出現と日本的経営の台頭
──宇田川さんはこれまでとは異なる企業変革論が必要だと述べられています。
今までの企業変革論として一般的にイメージされるのが、三枝匡さんの『V字回復の経営』(日本経済新聞出版)です。なぜ評価され、特に90年代に有効であったのか。まずはその背景を経営学の変遷から振り返ってみましょう。
経営戦略という概念が最初に生まれたのは1960年代であり、それ以前のアメリカの大手企業経営者はその多くが起業家でした。そのような時期を経て、その後、財務畑の出身者が増えてきたんです。要するに、ビジネススクールでMBAのトレーニングを受けた人たちが経営者になっていくという流れができてきたんですね。
1962年に、アルフレッド・チャンドラーが『Strategy and Structure』(邦訳は『組織は戦略に従う』ダイヤモンド社)において、アメリカの大手企業が成長とともに事業部制組織を取り入れるようになった理由を研究しています。ほぼ同時期の1965年に、イゴール・アンゾフは『経営戦略論』(産業能率大学出版部)において、多角化におけるシナジーを扱ったのも、戦後の復興期にアメリカで多角化が進んでいたからです。
多角化した企業では、経営者が現場の隅々までを把握しきれなくなります。そんな経営者たちが自分たちの企業統治を正当化するのに「将軍と兵士」というメタファーがちょうど良かったのではないか。ヨーロッパなどで盛んな「批判的経営研究(CMS:Critical Management Studies)」では、そのような指摘がなされています。この時代のアメリカ企業の経営では、「戦略を考える人」と「実行する人」という関係が生まれたわけです。
ところがその後、70年代のオイルショックを経て80年代に日本的経営が台頭します。そこから、ハーバードでMBAを取ったわけでもない日本人がなぜアメリカの企業に勝つのかと、日本企業が徹底的に研究されるようになったのです。
──日本的経営論が見出した日本企業の強みとはなんでしょうか?
そのひとつは強い組織カルチャーです。みんなが会社に貢献しようとするカルチャーが競争力の源泉になっている、というものです。
1986年には、『ハーバード・ビジネス・レビュー』に野中郁次郎と竹内弘高の「新たな新製品開発競争(The New New Product Development Game)」という論文が掲載されました。そこでは、欧米の企業は機能別に縦割り組織になっていて、部署から部署へとバトンを渡すようなリレー型の新製品開発をしているとあります。一方で日本企業は、刺身の切り身やラグビーのスクラムのような形でお互いのファンクションが重なりながら、ときに部門や機能を往来しながら製品開発をしている。「ワイガヤ」と言われるようなやり方が、まさにそれですよね。それが、日本企業の強みをもたらす要因になったのだという主張がなされたんです。
これは、1990年に ゲイリー・ハメルとC・K・プラハラードが提唱したコア・コンピタンス論にもつながります。日本的経営論のしんがりのような議論で、アメリカの企業は事業部で縦割りになっているがゆえに全社的なコンピタンスを全く活かせていない。対して日本の企業はコア技術を中心に扇のように広がる製品群を開発し、市場に参入していっているという指摘です。