4期連続減益から生まれた「両利きの経営」
1907年に創立したAGCは、世界中の拠点に約5万人の従業員を抱え、約2兆円の売上規模を誇る、老舗のグローバル大企業だ。「旭硝子」という旧社名からも推測できるように、祖業は板ガラスの製造であり、日本で初めて板ガラスの国産化に成功したことで知られる。
AGCは、時代の変化に合わせて商材の幅を拡大し、自動車用ガラスやブラウン管用ガラスパルブなどの製造も手がけるようになった。さらに、ガラス原料製造時の副産物である塩素を用いた化学品事業や、ガラス溶融窯用のレンガ作りから派生したセラミックス事業、半導体関連部材を製造する電子事業などにも進出。2024年時点で、ガラス関連事業は売上全体の約4割であり、次に化学品事業が約3割、電子事業が約2割と続く。

このような実績から浮かび上がるのは、「事業の多角化により、順調に成長してきた」という企業イメージだ。しかしかつては、2011年から4期連続で営業減益を記録するなど、大きな経営危機に瀕していたこともあった。若月氏はその原因を「営業利益構造における事業の偏り」にあったと振り返る。それまで営業利益を牽引していた電子事業の不調が、そのまま全体の営業利益縮小に直結してしまったのだ。
そこでAGCは、2015年以降、各事業でバランス良く営業利益を確保できるよう、事業ポートフォリオの抜本的な改革に取り組んだ。このコーポレートトランスフォーメーションが、後に「両利きの経営」の代表例として広く知られることになる。

事業拡大を支える「両利きの開発」
「両利きの経営」とは、既存事業を強化(深化)させつつ、新規事業の開拓(探索)を行う、イノベーション研究の理論を指す。経営学の世界的大家であるチャールズ・A. オライリー氏(スタンフォード大学経営大学院教授)とマイケル・L. タッシュマン氏(ハーバード・ビジネススクール教授)による同名の著書により、日本でも広く知られるようになった。
このスタンフォード大学のケーススタディとして採択されたのが、AGCの経営改革だ。「当時の経営陣は“両利きの経営”を意識していたわけではなく、結果的にそのような状態になったと表現するほうが正しい」と若月氏は語るが、事例企業として書籍に取り上げられことで一躍脚光を浴びることになった。
では、AGCにおける「両利きの経営」とは、一体どのようなものなのか。若月氏が強調するポイントは、「コア事業と戦略事業を両輪とする、最適な事業ポートフォリオへの転換」だ。

AGCは、2030年にありたい姿として、「独自の素材・ソリューションの提供を通じて、サステナブルな社会の実現に貢献するとともに、継続的に成長・進化するエクセレントカンパニー」というビジョンと、営業利益3,000億円以上という財務目標を掲げている。その達成に向けて、現在の収益基盤である既存のコア事業と、今後成長が期待できる新規の戦略事業を分け、同時並行でそれぞれを伸ばそうとしているのだという。
このような「両利きの経営」には、「両利きの開発」が欠かせないという若月氏。つまり、自社技術を革新して既存の顧客とともに新商品を生み出す「右利きの開発」と、スタートアップとの協業やM&Aなどを通して、既存の自社技術をもとに新規の顧客や市場を開拓する「左利きの開発」をともに進めるというのだ。

「両利きの開発」は、AGCの新規事業創出過程で古くから実践されてきた。たとえば、建築ガラスから自動車ガラス・ブラウン管ガラス、Displayガラス、車載ガラス・カバーガラスへと事業を拡大できたのは、技術革新・新商品の創出という「右利きの開発」と、新規分野の顧客獲得という「左利きの開発」を繰り返し行ってきたからだといえる。
「技術も顧客も新しい“飛び地”領域にいきなり足を踏み入れるのではなく、どちらかが接した領域から攻めることで、新しい市場と技術を獲得してきた」と若月氏は説明する。