経営危機で行った「外科的な手術」と「内科的な治療」
宇田川 元一氏(埼玉大学経済経営系大学院 准教授、以下敬称略):木村さんは、会社が経営危機に陥っていたときに、28歳で社長に就任されています。工場閉鎖でリストラも行い、精神的にも相当大変な日々を過ごされたようですね。
木村 光伯氏(木村屋總本店代表取締役社長、以下敬称略):はい、そうでしたね。
宇田川:全く規模は異なりますが、僕も大学院生だったときに亡くなった父親の負債を背負い、なんとか生き延びました。だから、大きな負債と重責を背負ってぐっすり眠れることがないような日々の感覚がよく分かるんです。社長になられたのは、何年でしたか?
木村:2006年です。リーマンショックの少し前ですね。それまでは、製造ラインに入ったり販売スタッフをしたり、色々な部署を回りながら勉強中でした。あるとき、経理部にいた姉に経営数値を見せてもらったら、とんでもないことになっていた。それから色々と手を打とうとしたのですがなんともならず、最終的には当時の社長であった父に退いてもらうことになりました。ただ、そのような事態を招いたことのすべてが父のせいだとは考えていません。バブル崩壊前はなんとか成り立っていた会社の経営ですが、その後の経営環境の変化にうまく対応できなかったのです。
宇田川:経営再建のために最初になさったことは、どんなことでしたか? それまでのやり方を変えるとなると、社員の皆さんの抵抗も当然あると思いますが。
木村:変革期間は「外科的な手術」の段階と「内科的な治療」の段階と、大きく2つのステージがあったと思っています。まず外科的な手術として、工場を閉じるなどコストを大幅に削減し、収支のバランスをとりました。
そこで古参の役員クラスの方たちに辞めていただいたりして、課長クラスの間では「会社を変えていかなければいけない」という危機意識が醸成されていたと思います。それでも、さらに収益を上げていくために会社を筋肉質にしていこうという「内科的な治療」に対し、現場の抵抗感はすごく強かったですね。
宇田川:「内科的な治療」とは?
木村:業務の標準化やマニュアル化を行ったのですが、職人さんたちには個々に先輩たちに教わってきたオリジナルのやり方がありました。それを統一しようとした結果、「俺は従わない」という人と「マニュアルの範囲でやればいい」という人とに分かれてしまったんですよね。結果的に最終的な製品の品質がものすごくぶれて、お店でパンを買ったお客様からのクレームが増えてしまいました。