高いレベルで美や洗練のコンセンサスがある「チームの必要性」
ではなぜ、そうした美や洗練に対する体験の蓄積が必要なのか。それは、こうした価値は利便性や生産性に比べて抽象的かつ主観的なため、議論されにくいという性質があるからだ。言葉では相手に伝えにくいことだからこそ、個々それぞれが経験しておく必要があるのだ。先日、知人五人で飲んでいた時に、そのうちの二人がフランスにあるラトゥーレット修道院について話をしていた。その類い稀な美しさを、その他三人に伝えようとしたが、数分後には「やっぱり、行ってみないとわからないんだよねー」と。全くその通りである。飲み会の話であればそれでいいが、これが、新しい価値を生み出そうとしている会議室で、しかももっと低いレベルで起こってしまうのが問題なのだ。