AIが物理世界へ飛び出す「フィジカルAI元年」
「生成AIの次に訪れているのは、AIが自律的に動き、現場という物理(フィジカル)世界へ飛び出していく『フィジカルAI』の波です」
セッションの冒頭、日立製作所の森正勝氏は現在のAIトレンドと技術の進化についてそう強調した。従来の大規模言語モデル(LLM)は主にウェブ上のデータを中心に学習されてきたが、現実の現場で起きているすべての事象がインターネット上に存在するわけではない。AIが現場で機能するためには、物理空間のデータをいかに獲得するかが鍵となる。

森氏は、単にセンサーデータを蓄積するだけでなく、「経験をキャプチャーする」という概念を提示した。たとえば、座面センサーの圧力データを単なる数字として扱うのではなく、「人が座った」というドメイン知識(領域専門知識)に基づく意味付けを行うことで、初めてAIは現実世界を正しく理解し、適切なアクションを起こせるようになるという。
「日本の強みは、工場やメンテナンス現場、あるいはオフィス空間といった『強い現場』を持っている点にあります。人が現場で蓄積してきた勘や経験、すなわちドメイン知識をAIに掛け合わせることで、日本ならではの強力なフィジカルAIを構築できます」と森氏は語る。
これに対し、イトーキの八木佳子氏は、オフィスという物理空間におけるデータ活用の重要性に触れつつ、AIと共生する時代における人間の役割を提起した。

「パソコンに向かう時間だけでなく、日常の空間全体でAIと共に生きる時代が来ています。AIに対して人間の働き方やオフィスでの行動を正しく理解してもらうための基盤づくりが、これからの企業経営において不可欠になります。実際に、日立製作所の一部部門で、イトーキのデータドリブンな働き方分析を活用する取り組みの検討がはじまっています」と八木氏は応じた。
従業員854名のマルチモーダルデータから描く生産性モデルの全貌
続いて、話題はイトーキと松尾研究所が共同で推進している「データ駆動型生産性推定モデル」の研究開発へと移った。
従来、オフィスや働き方の文脈における生産性の定義は極めて困難とされてきた。日本生産性本部の定義が示す通り、生産性は「産出(アウトプット)÷投入(インプット)」で表されるが、製造業のような明確な生産個数を持たないオフィスワーカーの場合、何をもってアウトプットとするかが企業や職種によって大きく異なるからだ。その結果、従来の取り組みは年に1〜2回の主観的なアンケート調査(サーベイ)に依存せざるを得ず、具体的な改善施策に繋がりにくいという大きな課題を抱えていた。

この課題に対し、イトーキの酒井美帆氏は、イトーキ日本橋オフィスの従業員854名を対象とした大規模実証実験の概要を解説した。

「本研究では、ビーコンによる位置情報やカレンダーの予定表、メール・チャットの送受信ログといった多様な客観データ(マルチモーダルデータ)から、働く人の行動を表す約70の特徴量を抽出しました」と大西氏は説明する。
モデルの全体像は3つのレイヤーで構成されている。
- レイヤー1(特徴量):位置情報、予定表、オンラインコミュニケーション等から抽出した行動データ。
- レイヤー2(コンディション):行動によって影響を受ける身体(フィジカル)、心(メンタル)、組織内の人間関係(ソーシャル)の3つの状態。
- レイヤー3(アウトプット):能力発揮度などの最終的な成果指標。
さらに本研究最大の技術的進化として、松尾研究所の大西直氏は「時系列因果探索モデル(VAR-LiNGAM)」の採用を挙げる。

従来の相関分析では「メールのやり取りが多い人は人間関係が良い」という事実が分かっても、どちらが原因でどちらが結果かの向き(因果)が判別できなかった。今回、因果探索AIを導入したことで、「今日の行動が、翌日のコンディションにどう影響を与えるか」という時間差を含めた因果関係の特定が可能になったのである。



