“守破離”の先にある、原点回帰と弁証法的発展──教育は「寺子屋型」が新しい?
山口(コーン・フェリー・ヘイグループ株式会社シニアクライアントパートナー):
システムというのは、その時代の色々な制約に最適化される形ででき上がっているんですよね。例えば教育制度、あれは明治時代に日本が近代国家になるにはどういう仕組みがいいかと考えて、“教育の大量生産”をしようという方向に行ったわけです。早熟な子もそうでない子も、みんな7歳になったら学校に集めて同じカリキュラムで教えて、1年間消化したら2年生の工場に送られる、そういうシステムです。ところが、その前の時代の寺子屋というのは全然そうではなくて、「この子はすごく早熟だから5歳で入れよう」という家もあれば、「この子はちょっとボンヤリしているから8歳になったら入れよう」という家もある。入ってからも、その子の進み方に応じて手厚くやっていくというやり方だったんです。
宇田川(埼玉大学 人文社会科学研究科 准教授):
そうですね。
山口:
例えば今、フィンランドではまさに江戸時代と同じことをやっているわけですよね。自宅でITを使って課題をやり、分からないことを学校の先生に聞くというスタイルで、早い子はどんどん進めればいいし、遅い子は遅い子なりの進め方でやってきなさいと。だから、学校で一人ひとりがやっていることはバラバラです。だからこそ人が先生をやる意味がある。大量生産するならITの方が向いているので、カリキュラムの消化はITでやって、その子なりの分からないところを解説するのが先生の仕事。まさに寺子屋の仕組みなんですよ。ITが出てきて、寺子屋型が効率よくできるようになったので、また昔のシステムに戻っているわけです。
時代の要請に合わせて国民皆教育、義務教育の学校というシステムが作られてから、まだ100年くらいなんですよね。目の前の現実やシステムを、僕らは常識だと思っていますが、長い歴史を知っていることで「なんでこうなっているんだっけ?」と問うことができたりするんです。アウフヘーベン(弁証法)は螺旋状で発展すると言いますよね。だから、上から見ると原点回帰のように見えます。「それぞれの子どもの進み方に応じてやりましょう」という原点があって、「それは効率悪がいから、みんな同じ年齢になったら同じカリキュラムでやりましょう」という方向に進んだのが、また「進み方に応じて一人ひとり変えましょう」と元に戻ったように見えますが、螺旋なので、横から見ると上に向かっているんです。
武井(ダイヤモンドメディア株式会社 代表取締役 共同創業者):
モンテッソーリとかサドベリーのような、オルタナティブ教育も増えていますよね。
山口:
今のシステムを相対化して見ようとしたときに、歴史を知らないとそもそもの原点が分からないですよね。守破離というときにも、目の前の常識である“守”を“破る”、あるいは“離れる”ときに、離れていく先は、実は200年前のシステムである可能性もありますね。